フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

中国女性の日本製化粧品人気/パソコン・トラブル/女子アスリートの肌露出

2015-08-27 13:52:45 | 日記

   既に2回も話題に取り上げた中国旅行はいよいよ明日出発となった。話題にしたのは戦争勝利70周年記念日』まつわる話であったが、結局軍事パレードやそのための戒厳令の混乱を回避するため、北京からの帰国は9月3日の予定を1日延期した。ここ数日は再会する教え子らとの日程の調整や土産の買い物などに追われた。4都市を巡るため重いスーツケースは持ち歩きたくないので、土産品は取りあえず軽くて嵩ばらないものを用意していたのだが、その後教え子たちからリクエストが相次いだ。日本の化粧品を買って来て欲しいと言うのだ。
   中国人旅行者の”爆買い”が話題になっているが、若い中国女性の間で日本の化粧品信奉は凄いものがあることを改めて知った。中にはメールで写真を送って来て「これを幾つ、それは何個・・・」と言う者もいれば、「先生が選んで〇〇円くらい買って」などこちらに品選びのゲタを預ける者までいる。何とか要望に応えるべく、70過ぎた爺さんが化粧品店の中をウロウロする仕儀と相成った。エスカレートするリクエストには「たくさんの人の土産も持たなくてはならないので・・・」とセーブしたり、一方では自分の用意した物が何だか余り意味がないようで複雑な思いもしている。

   日頃もそうだし、特に今回旅行に当ってはテンセントQQという中国のSNSを使っての通信がメインになるが、途中2回ほどネットが繋がらないトラブルに遭った。全くITに疎い私には一番頭の痛いトラブルで、そのためプロバイダーとテクニカルサービス契約を結んでいる。1回目のトラブルの時はサービス・エンジニアの方も首を傾げる難題。一旦打ち切って”水入り”となったが、2時間後くらいに再起動するとこれがスルスルと動いてあっけない修復。
   長時間稼働によるパソコンの過熱が原因なのかと素人判断していると、今日も午前中にダウンした。旅行前日だしパソコンがどうしても必要なところなので焦ったが、前例に倣いシャットダウンしてパソコンを休めたら動き出した。それで今旅行前最後のブログを打っている次第である。何にしても私のIT音痴は困ったものだ。

   購読紙(朝日)の今日の川柳読者投稿欄に「あそこまで 脱がんと走れん もんかいのう」というのが載っていた。最近、陸上の女子選手のウェアが超ビキニ並みに肌を露出しているのを評したものであろう。私もかねがねそれに違和感があったので、「そうそう、その通り」と思った。欧米の選手ばかりでなく、日本の選手までへそ出しルックにビキニ型パンツ。短距離の美人系アスリートである福島千里選手などはテレビへの露出度が高いが肌の露出度も高い。それを観ていて実に違和感を覚える。記録向上のためにそこまで肌を露出する必要があるのだろうかと。
   先日中学の陸上選手権がNHKでテレビ中継されていた。家内が観ていたのを覗くと、何と中学生までがビキニ型パンツ姿なのだ。一流選手を真似してそんなレベルから用具やウェアに凝っているのかと嘆くのは年寄りの証拠だろうか。  

     上記旅行のため、しばらく投稿をお休みいたします。

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親子夏祭り/三鷹阿波踊り

2015-08-24 10:58:25 | 日記

   学校の夏休みも終盤、私が見守り当番をしている最寄りの小学校で恒例の『親子夏祭り』が行われた。盆踊りを中心としたイベントで学校児童の親子や卒業生などが参加する。今年が21回目。主催は私も所属する「青少年対策委員会」というところで、それに学校のPTA役員、先生方、児童の父親グループなどのスタッフ総勢は約200名。夕方の開始を目指して朝から盆踊りの櫓やボンボリ、テントや机・椅子、夜間照明の投光器などの設営に汗だくとなる。午後4時の入場開始時には長蛇の列の児童親子が参集し、1000枚用意したチケットが途中で売り切れた。1人300円のチケット1枚でヨーヨー釣りや輪投げ、空き缶積み競争などのゲーム4種類と焼きそば、じゃがバタ、みたらしだんごなどの4つの模擬店全てが利用できる。「盆踊り大会」としないのはこうしたゲームを楽しんでもらえるところにあるようだ。盆踊りは6時から。お馴染みの「炭坑節」や「東京音頭」など3曲を踊って休憩・・・これを4回繰り返した。踊りの先達や太鼓は専門家に来てもらっている。日頃見慣れている児童が浴衣を着てオシャレをしている姿を見るのはちょっとした感慨であった。    

写真①ヨーヨー釣り。水槽を4ケ所設置してちびっこが挑戦するも苦戦する子が多かった。でも必ず一つはもらえる。 ②輪投げ。立てたペットボトルの空き瓶に輪を入れる。 ③丁度夕食時、模擬店にはたくさんの人が押しかけた。来賓やスタッフの分も含めて各店1500人分くらいを作った。暑い中一番大変なのは「焼きそば」であったろう。 ④踊りもたけなわ、会場の校庭が明るく浮かび上がる(校舎4階より)  

   
  ①ヨーヨー釣り         ②輪投げ       ③模擬店に大勢の人が ④闇に浮かび上がる会場

   もう一つ恒例の夏の祭り『三鷹阿波踊り』が一昨日から2日間開催され、初日は上の行事と重なったため昨日観覧した。今年で半世紀に近い48回目、都内各地からの参加の15を含めて31の連(踊りのチーム)が駅前の商店街を踊り練り歩いた。いつ観ても阿波踊りのリズムと熱気には心が躍る。 
   東京では高円寺の阿波踊りが一番知られているが、地元の三鷹と併せて30回ほどは観たことになろうか。私も一度だけだが、連に加わって2日間締め太鼓を叩いたことがあるが実に快感であった。

   
   あでやかな女踊り       ちびっこもたくさん参加していた       囃子方の皆さん

 

  [日本語教師の中国滞在記] 日本帰国後編-(ただ今準備中)

   山東省編を終え、9月上旬から日本帰国後編をアップする予定である。

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夏の高校野球終る/レアーなナンバー・続き

2015-08-21 16:57:15 | 日記

   夏の高校野球が終った。 3日前の前号で東京勢同士の決勝戦になるか、はたまた仙台育英が決勝に進出し東北地方悲願の「優勝旗の白河関超え」なるかと書いたが、どちらにもならず、神奈川代表の東海大相模が優勝、仙台育英は準優勝に終わった。これで東北勢の決勝敗退は8回、春の選抜を入れると11回になるという。何という非運なのだろう。東京勢決戦にならなかった決勝戦では東北勢優勝に応援した高校野球ファンが多かったのではなかろうか。準決勝で早稲田実業に圧勝したあの力を以てしても全国制覇にあと一歩及ばなかった。 

   前に、私は何故か出遭う車のナンバーに目が行き、そしてレアな数字や数字の並びの妙を見出だそうとすることを書いた。それは「10‐00」というナンバーの車が2台並んで駐車していたのを目撃したことを契機に取り上げたのだが、次には「15‐64」のナンバーが2台並んでいたのを見つけた。前者の場合は個人の駐車場なので持ち主がマニアであることが想像できたが、後者は我が家のすぐ近くの集合住宅の駐車場で、1戸で2台の車を置けないはずなので、全く偶然なのだろうかと思った。そしてそして昨日、今度は「70‐70」というナンバーを着けた乗用車が3台並んでいるのを見かけた。狭い裏道に面した共用駐車場と思われる場所である。これはどうしたことなのであろう、珍しくはないのだろうか。私はレアーなものを見つけた喜びより狐につまされた思いがしている。
     
     「16-54」が2台と思ったら今度は「70-70」が3台並んでるのを見つけた

  

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#86-山東省から帰国して

   2010年12月2日の夜、日本の我が家に帰り着いた。帰国後の後処理と年の瀬の慌しさの中でその年は暮れ新しい年を迎えたが、途中冬休みと夏休みの休暇を挟んで1年3ケ月、経貿学院の日本語教師として山東省濰坊市に滞在した日々は本当に想い出深いものであった。
   撮り貯めた写真を整理したり、もらった贈り物を取り出したり、授業で課した学生たちの作文を読み返したりして懐かしんだ。一方では学生たちとメールやチャットなどの交信が始まった。滞在中学生たちとは携帯での電話とメールだけのやり取りであったが、学生のほとんどはテンセントQQというSNSでメールやチャットの交信をしていた。帰国に当り学生たちから「QQ番号の交換をしたい」と言われた。9ケタの数字で、ちょうど携帯番号の交換みたいなものである。QQプログラムをダウンロードしてもらって自分のホームページを開設し、QQ番号を登録すれば無料でメールや文字チャット、音声チャットが自由にできる。QQにはツイッターのような投稿欄があり、投稿に対する書き込みもできる。そして番号交換している相手の全ての投稿・書き込みが私のホームページ上に表示される。こうして帰国後学生たちと新たな交流がスタートし、それは現在でも続いている。
   そこで必要になったのが中国語力である。学生たちの中には日本語表示や文字入力のソフトを持たない者が多く、中国語でのやり取りが必要なのだ。メールの場合は辞書を引きながらでも意味を理解できるし、多少は書くこともできるのだが、チャットの場合は文字会話であり意味を早く解読し速やかに応信しなければならない。中国に長いこと滞在しながらほとんど中国語が上達しないまま帰国したことを後悔しても既に遅し、である。そもそも全く中国語が出来ずに日本語教師として北京に赴き、さらに山東省に滞在した。そこでは語学の教師として妙チクリンな中国語を使ったり、学生を私の中国語の練習台にするのは如何なものかとの考えがあった。そして何より「正しい日本語」を身を以て伝えることに専心した。遅まきながら日本に帰国後、ようやくNHKのラジオ講座を聴講し検定試験にも取り組むようになった。中国語が出来なかった私を知っている学生から最近では「先生の中国語の上達がすごい」と言われたり、検定試験ではまずまずの水準にあるが、とてもとても自信からはほど遠いレベルである。
   教え子との交流はこれにとどまらない。私の帰国以前に既に研修生として来日していた者がおり、帰国以後も続々教え子たちが日本にやって来た。そしてこれらの研修生を励まし、また有意義な日本生活を送ってもらうべく研修先を訪ねたり東京に招いたりした。それらについてはタイトルを改めて連載で綴ってみたいと思っており、山東省編はこれを以て終稿とする。

【想い出がギッシリ】
 左は滞在中に撮り貯めた写真の数々。学生にはその都度プリントしてプレゼントして喜ばれた  中央は授業の宿題で3年生に書かせた作文。題は自由としたが学園生活の想い出記が中心で、大半の学生が私との想い出を綴っていて、教師冥利に尽きる作文集になった。 右は山東省を発つ前日の送別会で贈られた寄せ書き。長さ4mほどの横断幕2本に2年生と3年生がそれぞれ送る言葉を書き込んでくれた(ちょっと字が読みにくいが)

    
     

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天津の爆発事故/大詰め甲子園

2015-08-18 10:40:14 | 日記

   中国の天津で大規模な爆発事故が発生した。北京の都心から新幹線で30分の距離、首都圏とも言える天津の産業発展は目覚ましいものがある。その巨大化した工業都市の心臓部での爆発事故で、今のところ死者は百数十人、負傷者は千人規模と見られているが全容はまだ分からない。国家の恥にもなる大惨事に対し、例によって中国政府は厳しい報道管制を敷いているようだ。従って多分事故の全容は明らかにならないのではないかと思う。新幹線の脱線・転落事故ではすぐさま列車を埋めて証拠隠滅を図ったお国柄である。住居地区にそのような危険施設が不正に建設されたことや水濡れ厳禁の危険薬品と分からずに放水した消防隊の無知識など、明らかに人災だとして市民の批判の声が高まっている。世界第4位といわれる貿易港は機能不全に陥り、中国経済への影響も懸念されている。人命や安全は二の次という無秩序な経済発展の綻びというべきだろうか。
   それはともかくとして、発展著しいその天津には日本企業が800社も進出しているという。その代表となるトヨタは部品の調達や物流に支障をきたして工場休転に追い込まれた。  7年前のことだが私も天津を訪れたことがある。連載の「中国滞在記」中に登場するI.ヒロノブさんの誘いで、彼が建設工事を手掛けたトヨタ関連の工場などに案内してもらったのだ。この事故のニュースを聞いてヒロノブさんに電話をしたら、現場は見慣れた場所だとのことであり、私にも身近に感じる一件である。  

   夏の甲子園も大詰め、昨日でベスト4が決まった。大会前のブログで、早稲田実業の3番を打つ1年生清宮幸太郎選手に異常な関心が集まっており、カメラやマイクが執拗に追い回さないよう願っていると書いた。しかし、それは杞憂だった。そんなフィーバーに動じないというのか、むしろ楽しむがごとく打ちまくり、取材に応じている。打撃も肝っ玉も並みのヒーローではない。マスコミが大騒ぎするだけのことはあると再認識したが、まだ試合は残っている。最後まで目が離せない存在ではある。同じベスト4進出校である関東一高のオコエ選手の好走守の高い運動能力も注目を集めている。果たしてこの両者が決勝戦で顔を合わすのか。はたまた仙台育英が決勝に進み、東北人の悲願である「優勝旗の白河関越え」を果たすのか、球趣は尽きない。

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#85-サプライズの送別会:いよいよ別れの時が

   11月29日に最後の授業を終え、「教案書」という授業の計画・実施報告書を提出して私の任務が滞りなく終了した。別送の荷物は既に出してあり、身の回りの最後の荷造りもほぼ終えた。
   そして30日の午後、日本語科の学生及び教師による送別会があった。同僚のモリキさんから2,3日前にそれとなく言われていたので、有志が集まって送り出してくれるのだろうかと思っていた。宿舎で待機していて、「おいでください」の電話で教室に向かった。教室に入ると、何と1年から3年までの学生と教師(1人が所用で欠席)が勢揃いをしていて、拍手で迎えられた。そしてセレモニーが始まった。
   トー先生の送辞から始まって2年生を代表してシュウさんとタケシ君が、3年生を代表してケイさんとヨウさんがそれぞれ送辞を読んだ。続いて寄せ書きの授与。赤地に黄色で「先生  私たちは貴方を愛しています」と染め抜いた、長さが4mはある横断幕に全員が寄せ書きをしてくれたものだ。それがスルスルーと広げられた時には目頭が熱くなった。しばし寄せ書きに目を通した後、私の謝辞ということになった。少しウルウル声で想い出とお礼を短く語ったが、学生の席からはすすり泣く声も聞こえて来た。これで終わりではなかった。プレゼントを用意していた者は思い思いに手渡しをするという趣向で、それぞれ一言交わし、あるいは抱き合って席に戻って行った。
   これらの段取りはモリキさんが私には内緒で計画し、学生に箝口令を敷いて送辞などの練習もしていたようだ。私は教室に呼ばれるまで全く気がつかなかったのである。まさにサプライズの送別会であった。
   楽しいばかりの想い出を胸に、愛すべき学生たちに送られ、いよいよ12月1日の朝、経貿学院を後に濰坊駅から新幹線で北京に向かい帰国の途に着いた。北京では実験学校のリュウ先生と当時何日も観光案内をしてくれたハンさんを交えて食事をし、翌2日に無事日本へ帰国した。成田行きの機内に着席後、キャビン・アテンダントに制止されながらモリキさんに最後の携帯メールを送った。中国滞在の最後の最後の想い出であった。
  
   
   トー先生の送辞       2年生代表の送辞     贈られた寄せ書きの横断幕に目を通す

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心に響かぬ安倍談話/火垂るの墓/中国出発前から波乱

2015-08-15 18:00:15 | 日記

   最近の2日置きのブログ更新が「追悼の日」に重なる。6日のヒロシマ、9日のナガサキ、12日の日航機墜落そして15日、今日は「終戦の日」
   終戦の日に先立って、昨日「戦後70年の首相談話」が発表された。戦後50年の村山談話、同60年の小泉談話の路線を継承する、と口では言いつつ衣の下から鎧がちらついていたが、閣議決定までに多くの牽制がかかったため当初の腹の中とは大分違う内容になったのであろう。そのため、あらゆる表現が抽象的、第三者的になり、全く心に響かなかった。閣議決定後の会見の模様をノーカットのネット動画を観てそう感じた。滑らかにかつ丁寧に説明してはいるが、やはり安倍首相の本心ではないことがよく分かる。

   地元三鷹市では「戦後70年 平和のつどい」として戦没者追悼式などの恒例の行事のほか、展示会、アニメ映画「火垂るの墓」の上映会などがあり、映画と展示会を観た。「火垂るの墓」は戦災孤児の兄妹のはかない運命を描いた反戦(というより厭戦)映画の代表作であり、昨日も日本テレビ系で放映されていた。そのせいなのか、満員を予想した上映会の客席は半分ほどであった。

   10日ほど前のブログで「中国旅行計画に一波乱か?」というタイトルの記事を載せた。北京からの帰国日9月3日は「抗日戦争勝利70周年記念」行事の軍事パレードなどがあり波乱含みであると書いた。その後北京にいる教え子から「2日,3日両日は戒厳令が敷かれ、3日は朝から12:30まで北京空港の発着が禁止」となったとの連絡が入った。私の便は15:35発なのだが、その機材となる便が北京に来られるかどうか分からない。航空会社に尋ねたら、「会社としてはまだ運行の見直しはしていない」とのこと。それでは不安が大きいので翌4日に変更しようと考えたら4日は全便満席という。結局帰国がどうなるのか分からない現状であり、北京で一波乱どころか出発前から波乱が起きている。

  

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#84-残り少ない日々

   学生の方も3年生が卒業モードになって来たし、私の契約任期も終わりが近づいて来たが、私の務めである「日本の伝統・文化」の講義と会話練習は粛々と進めた。この時期で最も記憶に残るのは手作りの「福笑い」が大受けだったことであろうか。出来上がった顔の造作が面白く文字通り笑いが湧きあがる「福笑い」は日本から用意したものがなかったので自分で作った。要らないカレンダーの裏に顔の輪郭を描き、別途目や鼻、耳などを作った。あとは所定の遊び方である。初め授業でやったら受けて、我が宿舎でも遊んでもらった。
   名残りを惜しむ”儀式”も続いた。外国人教師の会で送別会を催してくれた。共通の事務室になっている私の向かいの部屋に各自が手作り料理を持ち寄った。米国人の料理、韓国料理はそれぞれ珍しかった。広島出身のモリキさんは「お好み焼き」、私は「スキヤキ」と言いたいところだが一度に全部を煮込んで出したので「牛鍋」と言った方が近い。英語を共通語にして和気あいあいの会になった。
   日本人会の方も開いてくれた。この時、山東科技学院のフカマチ先生とカワサキ女史とは私が日本から持って来た遊び道具を継承する話になり、後日私の宿舎を訪ねてくれた。因みにマンガやフィギュアなどは希望する学生に与えた。
   金江労務社からは食事に招かれ、日本に帰国後は中国人研修生の受け入れ企業開拓でパートナーシップを結ぶことになった。立派な肩書の名刺まで作ってくれたのだが、日本に帰って調べる内、私のような素人が手に出せるものではないことが分かり、この件は立ち消えになってしまった。
    宿舎来訪の学生たちも次々にやって来て名残を惜しみ、土産の品などを持って来た。来訪最常連のケイ・ショウロとヨウ・ハイジエの2人はケーキを買って来て、ささやかな送別をしてくれた。ただ彼女たちとは日本で再会することはほぼ確実であった。
   こうして残りの日々が過ぎ去って行った。
 

   
 環視の中、福笑いに挑むオウ・リッチ  ほぼ出来た顔はまずまずだ  常連の2人とささやかな送別を

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