フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

ブログ600号に思う/懐かしきYS11機   

2015-05-30 09:52:33 | 日記

   このブログは2011年2月に開設初投稿して以来通算600号になる。昨年の8月11日、私の70歳の誕生日に丁度500号となり、それを機にそれまでの連載「今日の花」シリーズを現在の「日本語教師の中国滞在記」に変えた。 「今日の花」は季節折々の花や光景を掲載した。季節の花は”生もの”である。花の写真は撮ってすぐアップしないと情報の鮮度がなくなってしまう。既にしぼんだり枯れてしまたてものを載せるのは最低だ。また百花繚乱の時期は色々な花々が一斉に咲くのでなるべくたくさんを載せたいが、それらを一遍には載せ切れない。ということで「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき・・・」の作家林芙美子の言葉ではないけれど、季節の花を旬の時に載せる苦労があった。また真夏や特に真冬の花のネタ枯れの季節も悩ましかった。
   それに比べ現在の[日本語教師の中国滞在記] の方は話題は過去にあったことなので、旬や時季とは関係なく書ける。概ね時系列的に取り上げているのだが話題の関連であちこちすることもある。文字だけ読んでいても退屈だし百聞はなんとかやらの言葉もあるので、必ず写真を付けることにしているが、書きたい話題やエピソードがあってもそれに伴う写真がないことが結構多く、それが難点である。写真は当時ブログなど全く想定せずに撮っていたものだから・・・。従って写真のない話題は割愛するか、他の写真の中から関連付けられるものがあったらそれを転用している。記録などなくても大方は思い出せるが、昔から使っている日記欄付きの手帳の4行日誌を見返していると当時のことが鮮明に蘇えってくる。今など数日前のことさえ思い出せないことが多いのに・・・。

   28日の新聞に戦後初の国産旅客機である「YS11」のフライトが実現した、とあった。スクラップになる寸前のところを買い取って整備した会社があったのだそうだ。国産開発のターボプロップ・エンジンのプロペラ機で離着陸距离が短くて済むため、小さなローカル空港に向いていたのだが滑走路の延長やジェット旅客機の大型化が進んで、9年前に第一線から退いていた。私はYS11に3度だけ乗ったことがある。一度は大学2年の夏休みに一人で東北地方を旅行した際、国鉄(当時)の周遊券の期限が過ぎてしまい青森の三沢空港から東京に帰った時。YS11は飛行高度が低いため、松島や磐梯山が絵葉書の如く実にきれいにはっきり見えたのが忘れられない。次jの搭乗は勤務地の大分から自分の結婚式で東京に帰った時(往復)である。
   YS11機は今後イベントなどでフライト披露があるようだ。  

  [日本語教師の中国滞在記] 山東省編#58―霊峰泰山に登る

   中国では陰暦の5月5日が端午節の祝日で、この年は6月16日の水曜日であったが経貿学院では授業の振り替えなどで13日(日曜)から4連休になった。宿舎の常連来訪者であるケイ・ショウロとヨウ・ハイジエの2人からこの連休に泰山の登山に誘われていた。中国には五名山といわれる道教の聖地があって 、その一つである泰山は世界遺産にも登録されている最高位の霊山と崇敬されている。中国人にとって泰山登山は江戸時代の金毘羅山参り、現在の富士登山のようなものである。2千数百年の歴史の中で歴代皇帝がこの山頂で即位の儀式を行ったとされ、山頂およびそれに至る参道には夥しい数の歴史的建造物がある。その泰山が我が滞在している山東省にあるのだ。かなりハードだと聞いていたが登ってみたかった。ガイドブックによると標高は1545m、大した高さではない。途中までバスもあるし、そこから山頂近くまでのロープウェイもある。しかしガイドブックには「昔からの参道には名所旧跡や絶景地があり、ぜひ自分の足で登ってほしい」とあった。全長9kmの参道に7412段の石段があるという。
   泰山は普通夜間に登り、日の出のご来光を拝むものである。6月とはいえ深夜・早朝の山頂は相当冷え込むというので、私はこのためにリュックザックを買い防寒衣を詰めて、13日の午後ケイさん、ヨウさんの2人と学校を出発した。因みに2人とも初めて登るのだ。濰坊駅から列車で麓の泰安市に行き、夕食をした後、タクシーで参道入口まで行っていよいよ登山開始。午後9時頃だろうか。参道は幅が7~8mで全行程ほとんど石畳と石段。9kmもの道をよくこれほど整えたものだと感嘆する。しかしこの石段がきついきつい。何度も休憩を取り、喘ぎながらひたすら登った。深夜にかけても夥しい数の登山者が我々を追い越すように登って行く。夜中でも所々にある茶店が開いていてその灯りで元気をもらう。行程の半ば過ぎにある「中天門」という所が広い休憩基地になっており、茶店や宿泊施設もある。ここから山頂へのロープウェイも出ているが夜間は勿論休転である。大勢の登山者がここでドタッとして休憩を取り、山頂での日の出を計算してまた出発をして行く。我々もバテバテの体をここで休め、気力を取り直して山頂を目指した。そして5時ちょっと前、ようようにして泰山の「山頂付近」にたどり着いた。

     
 3人で登り始めた午後9時過ぎ  真夜中にひたすら登る人・人・人   夜明け前山頂付近に立つ 
   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シャーロット騒動の総括/広がる知日熱

2015-05-27 11:56:39 | 日記

   今朝の朝日新聞のオピニオンの欄で「シャーロット騒動」の報道に関する読者の意見が特集されていた。大分市の高崎山自然動物園が赤ちゃんザルに英国王室の新しい王女の名前を付けたことがまずネット上で騒動になった。これが日本国内から海外にも飛び火をしたが、当の英国王室の鷹揚な対応にその名前に落ち着いたものである。今朝の特集では、その名付けに対して読者の賛否の意見に加えて識者として霊長類学者のコメントが載せられていた。私は反対の意見の方であった。サルは人間にとって大変身近で可愛い動物であることは間違いない。しかし、余り人間に近いものだから擬人化され、それが「猿知恵」とか「猴真似」「猿芝居」など人間の良くない比喩の言葉に使われるようになってしまった。そういうイメージの伴うサルに英国王女に便乗した名前を付けるのは如何なものかと思ったのである。今朝の読者の意見にはそうした論点がなかったが、霊長学者の意見には「日本にはサルを滑稽な存在と捉える感覚がありますからそういう反応が出たのでしょう」とあった。英国には「猿知恵」などのことわざはないようだし、英英辞典にもサルを揶揄する言葉は見つからなかった。それならばゾウやキリンに名付けるのと同じで、英国人には失礼には当らないのかもしれない。でも今回動物園ではそこまで考えたような説明はなかった。 

   これはちょっと前の話。新聞の国際面に『中国 広がる「知日」熱』 『売れる日本専門誌 若者、「文化」に関心』 『歴史認識・戦争には触れず』 などの見出しで、日中政府間のギクシャクした関係や、それに影響された反日・嫌日感情とは異なる市民感情、特に若者の意識が紹介されていた。勿論それが大勢ではないのだけれど、日本の文化や習慣を紹介する「知日」という専門誌が若者に受けているのだそうだ。いろいろな状況や背景が書かれているが、編集者は「経済的に豊かになり、情報も入るようにようになって、中国人の間で本物志向が高まったからだ」としている。最近話題の中国人旅行客の”爆買い”もその一つの現象なのか。私が中国で日本語を教えていた5年前後以前でも学生たちは党や政府のプロパンガンダよりも私の言動に耳目を傾けていたのだが、

 [日本語教師の中国滞在記] 山東省編#57-学内行事

   4月末の運動会を皮きりに5月、6月と経貿学院の学内行事が続いた。手帳の記録を見ると運動会が4月29・30日の両日、5月27日に工商管理学部文化祭、6月10日がロック音楽演奏会、そして6月29日に全学合唱コンクール・・・とある。いずれもタケシ君がモリキさんと私を案内してくれて、座席まで確保してくれた。
    運動会は前年の秋の行事としても取り上げたが、この春は初日の午前だけの観戦になった。午後からは学校が外人教師を「寿光蔬菜博覧会」に 案内をしてくれたのである。30日は私は来華する家族を案内するために青島の下見に出かけた。
    工商管理学部文化祭は屋外の特設ステージで行われ、歌、踊り、(日本で言う)漫才、パフォーマンスなど出し物も多彩で楽しかった。見物の学生たちもペンライトを振ったりして楽しんでいた。ロック演奏会と合唱コンクールは大講堂で賑々しく催されたが、まだこれらのジャンルは広く定着していない様子で大学生のレベルとしては物足りなかった。でもこうした学内行事は大勢の学生が集って盛り上がっていた。 

          
   運動会で日本語科女子チームのマスゲーム   文化祭での民族舞踊

                         
            有志グループによるロック演奏風景   クラスチーム対抗の合唱コンクール      

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

首にコルセット/六大学T大の勝利/大相撲夏場所

2015-05-24 17:58:19 | 日記

   今 私は首にコルセットをしている。むち打ち症の人がしているあれである。2ケ月ほど前から首筋の緊張が強まり、肩もキンキンに張り出し、やがて頭痛が伴うようになった。私は以前より首筋や肩が張る方だったのでいつか治ると思って放っておいたが、ますますその度を増すので、掛かりつけの医者に相談の上整形外科で診てもらった。頸椎等に大きな衝撃はないが生活上の筋ストレスが生じた結果だろうということで、首筋を安楽にするためにコルセットをつけるようにした。ところが、これが目立つので出合う人毎に「どうしたんですか」と聞かれる。袖なしのベストを上に着て、ファスナーで襟を立てているのだけれど全部は隠れないので、見えてしまうのだ。人に出会う煩わしさもさることながら、服用の薬の副作用で眠くて仕方がない。筋肉の緊張を和らげる2種類の薬の説明書に「眠くなることがある」としているが、じっとしていると眠くなってしようがない。今は眠気を押してテレビで大相撲の千秋楽を観ながらブログを書いているところである。

   今朝の新聞(朝日)一面に写真入りで『T大野球部 94連敗から脱出』という見出しが躍っていた。東京六大学野球で5年ぶりの勝利を挙げたニュースである。元々弱体チームでリーグ戦万年最下位のチームなのだが、チームの連敗記録を更新し続けていた。実は私の母校なのだが、勝って嬉しいことはあっても負けて悔しい思いをすることはなかったけれど、今回の勝利は新聞の一面に取り上げられるほどの記念の一勝ではある。私ははっきり記憶している。昭和39年の入学式の日、式が終るとすぐ親友と神宮球場に駆け付け、応援団席で声を枯らして応援をした。そしてこともあろうか、シーズン幕開けの初戦で勝利を挙げたのだ。応援団長が興奮し、応援席が狂喜乱舞した光景が目に焼き付いている。在学中はどれほど神宮球場に通ったことだろうか。

   大相撲夏場所が今終わった。結びの一番で白鵬がまさかの4敗目を喫し、関脇の照ノ富士が12勝3敗で初優勝を飾った。先々場所から俄かに頭角を表し、新関脇の先場所は白鵬を破っての13勝2敗と活躍、これで関脇2場所で大関昇進が確実になったようだ。飛んだり跳ねたりの相撲ではなく、堂々とした取り口は先の楽しみな23歳である。 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#56-学生たちに紋付の着付け

   前号では紋付き・羽織・袴の正装で教壇に立ち、日本の着物姿を披露したことを紹介したが、学生たちに人気となった着物をその後宿舎に訪ねて来る多くの学生に着付けをしてあげた。着物は私のものだから当然男物。宿舎にやって来るのは圧倒的に女子学生が多いが、その辺はどうでもよかった。それと和服のいいところで、たいていの体型に合わすことができ、それなりの格好になった。また、女の子を下着姿にする訳にはいかないので、ジーンズとTシャツの上から襦袢を着せて着物を着けたが、下は隠れて見えないので何とかごまかしが効いた。とにかく学生たちは着物を着て大喜びでそれぞれ写真に納まっていた。(注:袴の柄は太い縦縞なのだが、下の写真ではそれが再現できない)
   この時点では日本から送ってあったのは紋付き・袴だけであったが、契約の期間延長が決まって夏休みに帰国した時に浴衣とアンサンブルを送り、次の新学期には浴衣を着てもらうことにした。浴衣は大した値段ではないので新調して女物も送ればよかったのだがと後悔したが、勿体ないので私の浴衣だけ送った。浴衣の着付け編はまた後日取り上げたい。 

      
      キョク・ウンリュウ君   サイ・ブンセイと仲良く     リー・ギョクキョウ     おどけるケイ・ショウロ  

                
               ウー・ヘイとそのルームメイト               仲間のカメラにポーズをとるヨウ・リン

       
      ホウ・テンマイ       ヨウ・ハイジエ          タケシ君         ラン・ホウカ 

              

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気配りの力士旭天鵬/久能山と日光の東照宮

2015-05-21 09:13:55 | 日記

   大相撲の幕内最年長40歳の旭天鵬が魁皇の幕内出場記録を抜いて史上最多となった。引退した魁皇の1444回をこの夏場所5日目で抜いて昨日(11日目)までで1450回に達している。旭天鵬と言えば旭鷲山らとともに来日した大相撲史上初のモンゴル出身力士であり、今日本の大相撲を席巻しているモンゴル勢のパイオニアなのである。もともとモンゴル相撲や柔道の経験はほとんどないといい、厳しい大相撲のしきたりの中で忍耐と努力で出世をして、しかも長い間第一線で活躍している。2年前には平幕で幕内優勝を果たした。
   その旭天鵬が常に周囲に気遣う気配りの人として新聞に紹介されていた。十両に落ちたら引退と心に決めているが、「幕内優勝したモンが十両で取れるか」という訳ではない。「十両は若者がしのぎを削る場所。上から落ちたオッチャンが勤めるところではない」と言う。昨年九州場所で敢闘賞の受賞が決まった時は支度部屋ではなく外の車で表彰式を待ったという。「支度部屋には負け越した力士もいるのだからヘラヘラしていたら失礼」だとか。その他のエピソードも紹介されていて、白鵬がそんな旭天鵬を尊敬しているとも書かれていた。土俵上でも常に穏やかな表情の旭天鵬には私も拍手を送りたくなる。

   一昨日の新聞に『勇壮 400回忌の千人行列』として、徳川家康の400回忌を迎えた日光東照宮の千人武者行列の儀式が載っていた。家康の死後静岡の久能山東照宮に祀られた霊を日光の東照宮に移した当時の様子を再現したものという。実はその千人行列の日、私(達)は図らずも久能山東照宮を参拝したのであった。「私(達)」と言うのは前号に書いた話題の一つの日帰り研修で23人が訪ねた場所であるからだが、久能山の言い伝えによると、死期を悟った徳川家康は自分の死後について『遺体は駿河の久能山に葬ること、葬礼は江戸の増上寺にて行うこと、位牌は三河の大樹寺に建てること、一周忌後下野の日光山に小堂を建てて勧進し関八州の鎮守とすること』と遺言したとされる。その日光山の小堂が今や日光東照宮として家康を祀る本山と思われるようになり、世界遺産にもなっている。家康の遺骨が安置されている久能山も国宝に指定された立派な由緒を持つが、日光山の壮大さ華麗さに比較されるとやはり影が薄い。  

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#55-紋付の正装で教壇に立つ

 
  5月のある日、日本から送った紋付き・羽織・袴で正装して教壇に立った。学生には何も知らせていなかったので、それはサプライズになったようだ。家族を教室に招き入れて紹介した時のように学生たちは歓声を上げて総立ちとなり、携帯で写真を撮ろうとした。写真は後で休憩の時間に撮ることとしてまずは授業を始めた。休み時間に教室の外に出て講義棟入口の階段に整列して集合写真を撮った後、てんでんに私とのツーショットやらスリーショットの写真を撮り合っていた。写真は後日焼き増しして学生たちに配った。
   授業を終えて宿舎に戻ると2年生のイー・カカ、ウー・ヘイらのグループが訪ねて来たのでそのままの格好で記念写真を撮った。その後この「日本の伝統の礼服」は学生たちの話題となり、しばらくは宿舎を訪れた学生たちに着せてみせて喜ばれた。

       
  紋付・羽織・袴の正装にて授業   休み時間にクラスの集合写真   授業後宿舎に来た2年生と
     下は個々の学生とのツーショット、スリーショットに納まる 
  

 


   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民生委員活動/浅田真央現役続行

2015-05-18 23:05:22 | 日記

   前に私は東京都民生委員及び児童委員の委嘱を受けていることを書いているが、この10日間ほどはほぼ毎日その任務に関する活動に携わった。 5月12日が「民生委員・児童委員の日」であり、その前後の1週間を「活動強化週間」としていろいろな啓発・広報活動の取り組みがあった。前の週に準備作成した啓蒙・PR用のパネルを市役所ロビーに展示して、当番で立ち合い説明に当ったり、昨日の日曜には都民連主催による啓発パレードに加わった。都内全域から集った1400人の民生・児童委員が新宿の目抜き通りをパレードしたのだ。パレード前日は地域の福祉活動を担うケアネットの会議に出て運営に関する意見を主張したり、今日は別の地域団体の日帰り研修に参加した。この間、ほかの事が余りできなかったが、お蔭で顔とお名前は存じているメンバーのこれまで知らなかった素晴らしい一面を知る機会にもなった。

   浅田真央ちゃんが現役続行を表明した。昨年5月に「(現役続行は)ハーフ・ハーフ」と宣言してその成り行きは国民の大きな関心事になっていたが、1年を経て今日の記者会見で晴れて「続行」を表明したのである。もう24歳になった浅田選手、真央ちゃんと呼ぶにはちょっとそぐわないかも知れないが、未だに国民的アイドルであることに変わりはなかろう。昨年2月のソチ五輪ではショートプログラムでまさかの失敗とその翌日のフリーの演技での感動的な演技。メダル獲得こそならなかったものの続く世界選手権では3度目の優勝を飾った後の「ハーフ・ハーフ」の休养宣言であった。私は引退への気持ちを整理する期間と考えていたが、まだまだ競技に対する情熱はたぎっていたようだ。周囲のいろいろなアドバイスや後押しもあったのであろう。師と仰ぐ佐藤信夫コーチも最終的には全力でバックアップするようだ。今や世界の第一級の選手になった男子の羽生結弦選手とともに華麗な演技を見せて欲しいものである。
(なおこのブログ初稿には大相撲夏場所の話題を取り上げていたのだが、浅田真央の記者会見のニュースを知って急遽書き変えた)

 

[日本語教師の中国滞在記] 山東省編#54―引き留めのラブコール

   5月上旬に家族が来華した時の話の中で、日本語科教師との歓迎の食事会で『家内の隣りに座った主任教師のバオ先生がしきりに私を引き留めて契約の延長を望む話をしたようである』と書いた。バオ先生はかねてより私の学生からの評判を口にしておられたのだが、任期の残りが実質2か月しかない5月になると「残って欲しい」というニュアンスを含むようになった。その内同僚のチョウ先生からも「先生、帰るのですか?」と暗に引き留めのラブコールとも受け取れる質問をされるようになった。せっかくの有難いお気持ちではあったが、その時点では契約満了で帰国するつもりであった。
   というのも、妻子が一緒に濰坊へ遊びに来た時皆さんにはすごく円満な家庭に映ったと思うのだが、実は家にあって長男はいろいろ問題があって親には心痛の種であったのだ。そのため、私が長期に家を空けて北京や山東省に滞在することは家内にとって極めて気が重いことであった。会社リタイア後の私の生き方に水を差したくないので送り出してくれた家内の心情を考えると期間を延長する訳にはいかなかった。
   ただ、一方では授業は軌道に乗っており、授業を離れても学生たちとの交流が盛んで楽しいし、経貿学院の処遇や濰坊・山東省での生活にも満足していたので、もっと続けたい気持ちもあった。
   そうしているところへ外語学部のソン事務主任から続けてもらいたい旨の学校としての打診があり、家内にも了解を取って結局3カ月の延長ということで理解を得た。その際私は3年生(08年級=現在の2年生)に『日本の伝統と文化』を教えたいことを伝えたら、授業は全て任せるとの即答であった。
   後から考えたことだが、次の1年生(10年級)と2年生(09年級)はそれぞれ1クラスしかなく、3年生は2クラスだが前年の例からみると授業は有名無実で日本人教師はモリキさん1人で間に合うはずである。学校というか中国人教師たちとしては今の盛り上がりを維持したいとの気持ちがあったようなのだ。そう考えてみれば外国人教師は全て教職員マンションの同じ階段の上階に居住しているが、1階に居る私には他の教師の部屋に学生が頻繁に出入りしている声や物音は聞こえなかった。日本語科は授業外での盛り上がりが教室の授業にも波及していて、私の続投が望まれたのだと気付かされたのである。

           写真は左からバオ先生、チョウ先生、ソン主任
           
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする