フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

[中国で日本語教師]再投稿・北京編#6―個人授業のような小さなクラス

2024-08-30 12:15:17 | 日記

  9月1日、中国の新学年が始まった。ボランティアの日本語教師である私が勤めるのは実験学校の日本留学班。実験学校は島根県の江の川高校と姉妹校提携を結び、学生と教師の交換・交流をしていたが、前年から提携を解消していた。日本留学班は残したが、生徒の募集や留学先の高校探しなどは主任教師を勤めていたリュウ先生が学校から委託を受けていた。中国と日本の学年度の違いから、中学を卒業した生徒を9月から翌年3月の日本の高校受験までの約半年間、基礎日本語を教えるクラスであった。私はビザの滞在期間の前半3カ月の任期でお引き受けした。

   クラスは10名程度の家族的な定員であったが、その年集まったのは3名の男子であった。
   その3名が次々に集まってきた。リー.H君はお金持ちの子で一人っ子。日本行きの希望が強く、親の反対に抗して一旦進学した高校を辞めての応募であった。性格もよく3人の中でのお兄さん格である。ナガサキ.K 君はお父さんが東京で特殊車の輸出販売の事業をしており、そのせいもあって日本名を名乗っていた。少しボンボンでお姉さんが一人いる。3番目のジョ.W君はサッカー少年。どういうレベルか知らないけれど国家3級の認定を受けているとか。母親は青島大学の教師というけれど、全く躾ができておらず、授業中は厄介者だった。
   教師はリュウ先生と私、まずは個人授業みたいな5人のクラスである。(後にはツォン.R君という30台の男性助手が加わることになる)
 
    みんなが揃ったところで教室に入り、全員の自己紹介をした。私は日本出発前に中国人に手伝ってもらって作っておいた挨拶文を読み上げ喜ばれた。
   日本留学班の教室は教学楼(教室棟)の3階、20人くらいが入れる部屋で、隣に専用の教師事務室がある。教室内は一人座りの机や教壇、黒板とチョークなど日本でもおなじみの光景である。いよいよ教師として教壇に立つのだ。(つづく) 

 

   
  実験学校の教学楼(教室棟)  後に加わった助手(左端)を含めて6人の小なさ世帯

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[中国で日本語教師]再投稿・北京編#5―明けて北京は快晴青空

2024-08-27 09:23:45 | 日記

 日本を発って北京入りした前日は、空港に着いて出迎えがおらずにヤキモキしたり、宿舎の部屋には生活用の備品が何もなくて愕然としたり、寝る時は蚊に悩まされたり、心身ともに疲れ果てたが、夜が明けると快晴で青空。疲れがスッと軽くなった。今日は日曜で明日9月1日から日本留学班の授業が始まる。リュウ先生が教師の事務室に案内してくれ、先生のパソコンを借りて取りあえず家内や数人の知人に無事北京着のメールを送った。それから迷子にならないよう学校の位置を確認しながら周辺を歩いてみた。明日からは9月に入るこの時期、秋の気配も感じられるが陽射しは強かった。学校の周囲やキャンパス内の位置が大体つかめた。

   「北京は快晴青空」と書いたが、それは北京オリンピックの賜物である。中国の都市などの大気汚染はよく知られたところだが、海外から多くのお客がやって来るオリンピック開催に向け、国の威信を賭けて環境浄化に努めたその成果というわけだ。
   

   実験学校は小学校から高校までの一貫校であり、かつ幼稚園や韓国人学級、音楽学院、カナダの大学への進学コースなどを併設しているマンモス学校である。幼稚園と小学生を除いては全寮制のため寮は6階建て4棟の壮観さである。明日からの新学期に備えて、生徒たちが続々寮に戻って来た。さあ、明日から私も”先生”になるのだ。(つづく)

                  
実験学校の吹き抜けのエントランス  壮観な寮の光景 私もこの一角に滞在

 

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[中国で日本語教師]再投稿・北京編#4―北京での生活始まる

2024-08-24 11:58:09 | 日記

  北京での生活のスタートはまずスーパーに行って身の回りの日用品を調達することだった。部屋には生活用品が何もないので、リュウ先生にスーパーまで案内してもらい、洗面具や石鹸、歯磨き、トイレットペーパーの類いから、電気スタンド、グラス、えもん架け、ほうき、バスタオルその他こまごましたものを買い込んだ。取りあえずは寝起きできるようになった。
   それらを部屋に置くとすぐリュウ先生夫妻による歓迎の食事となった。その席にハン.Xさんという女性が呼ばれていた。ハンさんは実験学校の日本留学班で教鞭を取っていたが、その年の春に辞め日本語の観光ガイドの資格試験準備中であった。30歳ちょっとの独身である。日本への留学生に伴って日本で暮らしたことがあり、勿論日本語は流暢であった。
   話は前後するが、リュウ先生は関西の有名私立大学に留学、卒業後も数年間日本で仕事をしたことがあって日本語は完璧であった。しかし自身が関西に住んでいたためどうしても標準語の日本語教師が欲しくて、ボランティアを募ったのだそうだ。夫婦の間には自慢の一粒種の小学生男児がいた。 
  歓迎の食事は美味しかった。 部屋に戻ってまずは荷物を解き、シャワー(中国の家庭ではまず風呂はない)を浴びて一息ついてベッドに入った。もう12時(日本時間では午前1時)になっていたが、蚊が顔にまとわりついて眠れたもんではない。仕方なしにシーツを外して顔に掛けて寝た。多分眠ったのは日本時間で午前2時を過ぎていただろう。この長い一日から北京での生活が始まった。(つづく)

           
          この実験学校で北京での生活が始まった

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[中国で日本語教師]再投稿・北京編#3―愕然とした北京到着

2024-08-21 10:40:42 | 日記

 朝6時前、家内に起こされて身支度し成田空港へ。機内に着席後1時間ほど待たされたが正午にテークオフしたJAL機は14時過ぎに無事北京空港に到着。入国手続きを終えて到着出口まで来ると出迎え客が大勢待ちかまえていた。その中に実験学校のリュウ.L先生が私の名前を掲げて待っているはずだ。リュウ先生はこれから行く北京経済技術開発区実験学校の日本留学班の女性主任教師。しかし、それらしき姿は見当たらず、出迎えの人たちは三々五々引き揚げて行ってほとんどいなくなった。私はリュウ先生の顔を知らないし、携帯番号も知らない。今日行く実験学校の住所も連絡先も分からない。要するに北京空港に着いたものの何の当てもないのだ。どうすりゃいいんだ?
   回りをよく見ると人だかりがしていたので、そっちの方に行ってみた。実はそこがもう一つの到着出口で、人だかりの中から一人の女性が近づいて来た。私の名前のカードを持っている。それがリュウ先生で、やっと出会えたのだった。さっそくご主人運転の車で実験学校に行き、私の宿舎となる学生寮の一室に案内してもらった。学校はまだ夏休み中で寮も森閑としていた。部屋の前の廊下にはゴミが散乱している。ちょっと不安な気分。ご主人が部屋のカギを開けてくれ中に入って目を疑った。学生3~4人用のその部屋にはベッドと机・椅子が一式あるだけであとは何もないのだ。テレビや電話は勿論、冷蔵庫など生活用具が何もない。(洗濯機はあるのはあったが、給水・排水のホースもなくホコリが積もっている) 「ええっ、ここで3ケ月生活しろというんですか???」もう愕然、絶句するしかなかった。案内したリュウ先生自身は少し戸惑っている程度で、大して驚いた風でもなかった。本来、生活できるように備品類を整えて私を迎えるのがこの先生の役目のはずなのにである。 
   後に分かることだが、これが中国流なのである。計画的できちんと用を果たす日本人とは全く違うのだ。ともかく北京に来てしまったのだ、後にはもう戻れない。 (つづく)

           
    降り立った北京空港の近郊。機窓から整然とした新しい団地が見えた

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[中国で日本語教師]再投稿・北京編#2―いざ北京へ出発

2024-08-18 10:37:16 | 日記

「中国で日本語を教える」ことが決まって日本語教育の俄か勉強を始めたのだが、外国人に日本語を教えるにはいくつものメソッドがあることを知った。また正規の日本語教師の資格というのがあって、文化庁の指針に基づく420時間のカリキュラムを修了するか、日本語教育能力検定試験に合格する必要があることも分かった。しかし私にはそこまでする考えはないし、時間もない。例えば420時間のカリキュラムを修了するには最低6ケ月の時間と5,60万円のお金が要るのだ。さらには今の国語文法は我々が中学・高校で習ったのとはちょっと違うことも知った。もう「ままよ、なんとかなるべ」の突貫精神で行くことにした。何てったって”ボランティア教師”なんだから。それより中国旅行ガイドブックを買い込んで北京を中心とする観光スポット巡りに夢を馳せた。約8世紀の長きに亘る中国の首都北京は何と言っても歴史遺産の宝庫である。もう頭の中は日本語教師と北京観光と海外ロングステイが三分の一ずつ占めている。
   

   さてボランティア教師なるものの待遇はと言うと、「住居と食事は先方持ち、日用品費や小遣いとして月1万8千円くらい支給。往復の渡航費を含めてほか一切は当方負担」というものであった。私はそれで十分であった。2008年8月は北京オリンピックのあった年。五輪が終わってパラリンピックを迎える8月の末に勇躍北京に向け飛び立った。

            
          成田空港からはパラリンピック日本選手団と乗り合わせた

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