フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#48-野菜博覧会

2025-03-14 18:32:01 | 日記

  「世界風箏大会」の1週間後の4月末、学校が我々外教(外人教師)を「寿光蔬菜博覧会」に連れて行ってくれた。
   寿光というのは濰坊市の一部になる町で車で小一時間の所、辺りは山東省の一大野菜生産地に近い。蔬菜というのは野菜のことである。そこで開かれる蔬菜博覧会は中国一の規模で、濰坊としては風箏大会に並ぶ大イベントなのだそうだ。それで学校の方で外教を博覧会に招いたという訳なのだ。会期は1週間から10日くらいあるのだが、連れて行ってくれたのは運動会(その日と翌日)の午後、ソン事務主任が車で案内してくれた。運動会があるので相棒のモリキさんは行かず、英語科の2人と韓国語科の1人、合わせて4人の教師であった。
   広い会場には大きな展示館が幾つもあった。建物毎に展示カテゴリーが異なる。珍しい作物や新しい栽培技術、作物による装飾的な作品等々である。例えば写真①のアーチや装飾、②の柱のようなオブジェなど、作物の色と形を巧みに組み合わせた作品が溢れていた。②を見れば分かりやすいが上部の赤い部分はトマト、下の黄色いところはグレープフルーツ(のような柑橘類)である。①のレンガのようなものや黄色い装飾部分は何を使っているか分からないが、近くによって見ると「ヘエ~」と感心する作品がいっぱいであった。③は重さ200キロの巨大カボチャで今回出展の目玉のようであった。
   因みに写真①左から韓国語科の趙先生、私、英語科のケイトとケリーである。ソン主任を含め5人の共通語は英語になった。 

          
     ①           ②          ③

   ところで何故ここで中国最大の蔬菜博が開かれるかというと、冒頭部分でも書いたがその辺一帯が中国でも有数の野菜生産地になっているからだと思う。下の写真は同じ濰坊市で寿光の隣り青州地方の野菜栽培のビニールハウスの光景である。別の日に列車の窓から撮ったものだが、行けど行けども平地にビニールハウスが続いていた。これは凄いと思った。とても日本の農業の規模とは比較にならない。
   日本は中国から野菜およびその加工品を大量に輸入しているが、地理的にも近い山東省が最大の供給地になっているのである。日本の食品加工企業の進出も多いと聞いたが、そういうことがなるほどと頷ける光景である。

            

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[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#47-凧揚げの町濰坊

2025-03-12 18:42:10 | 日記

   濰坊市は「凧揚げの町」として世界的に知られているのだそうだ。1984年4月、アメリカ人の提言に基づいて第1回坊国際凧揚げ大会を開催して以来年一度の国際凧揚げのイベントが坊市で行われるようになった。さらに87年に「世界の凧揚げの里」に選ばれ、国際凧揚げ連合会の本部が坊市に置かれている。凧は中国語で「風箏」というが、濰坊市の中心部に世界風箏博物館がある。市内を流れる白浪河のほとりに建つ豪壮な建物だ。 館内には世界中の凧が展示され、凧の歴史のなどを知ることこともできる。因みにその昔は日本の狼煙(のろし)のように通信手段として軍事的に利用されたらしい。 濰坊市の土産品として凧およびミニチュア凧セットが人気なのである。私も帰国時に日本への土産に買ったり、学生から贈られたりした。   
  
   写真①世界風箏博物館の全景  ②館内中央の吹き抜けには世界の凧が立体展示してあった ③日本の凧展示物の一例  ④地元中国の変わり凧
   
左から、世界風箏博物館/吹き抜けの展示室/日本の凧の展示品/中国の変わり凧 

   「濰坊の春は2回風が吹く」という言葉があるという。めったに風が吹かないという意味ではない。潍坊の春は風がよく吹く。春先になると吹き始め、なかなか止まずに吹き続ける、つまり風の切れ間がほとんどないという意味である。その風こそが毎年4月に国際凧揚げ大会が行われ、「凧揚げの町」と呼ばれる由縁なのかもしれない。 2年生1班のダイ・フィフィらのグループがその凧揚げ大会見物に連れて行ってくれた。会場は市の郊外の小高い丘の上であった。世界から様々な凧が揚げられており、日本からも浜松市など凧揚げで知られるチームが幾つも参加していた。私はその中でも中国の飛行機凧に釘付けになった。ジェット戦闘機にも似た形の凧の糸を引いたり緩めたりして上昇・下降・旋回など自由に操る。それを4~6機編隊で操縦しアクロバット飛行をするのである。凧にはうなり仕掛けがしてあり、ブーンブーンとリモコン飛行機のような音を立てて飛ぶ。チームワークよろしく見事に操縦する様は圧巻であった。動画を撮っているのだがそれを見せられないのが残念である。

    
  学生たちと記念写真/世界各地の凧が空を舞う/圧巻だった飛行機凧の編隊飛行

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[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#46-中国の結婚式

2025-03-10 18:32:45 | 日記

   3月末の日曜に応用外語学部事務主任のソンさんの結婚式があり、モリキさんと私も招かれた。これが中国で2回目の結婚式参列である。3月29日投稿の#37で紹介したように、日本でいう大晦日の12月31日に日本語科のトー先生の結婚式に出席したのが始めであった。それからずっと後のことになるのだが、契約期間を延長をした11月には日本等への研修生派遣会社の女性部長オウ・イクキンさんの結婚の時にも招かれ、都合3回結婚式への参列を経験した。
   いずれもホテルのパーティー会場で行われ、出席者は2,3百人ほどであった。式は専門の司会者によって進行され、ウェディングマーチに乗って新郎新婦が登場して、結婚指輪を交換したり、上司などの祝辞があったり、仕掛けやセレモニーなども日本と同じようなものが多かった。
   日本と全く異なるのは、招かれた者は全員普段着であること。会社や学校に行く格好なのだ。またお祝いのお包みは何と100~200元(当時で1,300~2,600円位)という。しかも新郎新婦本人に直接渡すのであった。お包みがそういうものだから、逆に引き出物はなくお土産に子供向けのアメが配られるだけであった。中国の結婚式参列は日本のように肩肘張らず、実に気が楽である。
   祝宴では料理が円卓に乗せ切れないほど次々と出て来る。男どもは同席同士が白酒で乾杯(カンベイ)!乾杯!である(一人一人と杯を交わす)。 初めてのトウ先生の時はどうしたか覚えがないが、ソン主任の時はバオ先生宅にお呼ばれして白酒で酔いつぶれた後のことであり、適当に乾杯をコントロールした。お酒に弱いモリキさんは結局酔いつぶされてしまった。 
 
  3回目となる結婚式参列は時期としてはまだ先の話だが、結婚式の話題の一つとしてここで取り上げることにする。この時はオウさんの会社の上司・同僚だけは個室で、どういうわけか私もその一員に加えられ、社長ソンさんの隣りの席に座らされた。式典を見ることもなく祝宴が始まり、例によって「乾杯!乾杯!」になるが、皆さんは”来賓”に当る私の方に向けて代わる代わる「乾杯」をしてくれる。これはヤバイと思って途中からビールでの乾杯に替えさせてもらってしのいだ。それでも一気飲みの連続で結構きつかった。
   オウ・イクキンさんについては、後日改めて登場をしてもらう予定である。

          
  トー先生の結婚式でお馴染みの演出  同、日本語科教師たちと記念写真を 

             
                    ソン主任の晴れ姿        客席の様子、みんな普段着姿

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[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#45-家に招かれ酔いつぶれる

2025-03-08 18:21:16 | 日記

    後期の授業が始まった週の土曜、同僚のモリキさんと共に日本語科主任教師のバオ先生のお宅に招かれた。ご主人は顔を知っている程度であったが、経貿学院の外語学部教務室の職員である。ここで私はしこたま中国の”白酒(バイチュウ)”をご馳走になって酔いつぶれてしまった。人前で酔いつぶれたことはほとんど記憶がないのだが・・・。

   家は新しいマンションで内装はほとんどバオ先生の注文によるとかで、なかなかにシャレている。
客を招く時の中国人の流儀で家の中を案内された。それから分厚い結婚アルバムを見せてくれた。これでもかと様々なポーズの写真が満載。普段余り愛想のないバオ先生とは別人の感がした。当時まだお子さんはいなかった。料理は全てご主人が作っているという。中国では共稼ぎが普通だが、料理も男性が作ることはごく普通なのだそうだ。
   料理が出来上がったところで4人揃ってテーブルに。初めビールを一杯いただいた後、白酒を奨められた。白酒はコーリャンを原料とする蒸留酒でアルコール度数は45度。モリキさんは酒は弱いので、私とご主人とで乾杯(カンペイ)を交わした。中国流の乾杯は完全に飲み干さなくてはならない。日本のぐい飲みくらいな杯で一気に飲み干したら注いでもらう。杯をちょっと合わせてまた「カンベイ!」、これを何度も何度も繰り返す。白酒は非常に口当たりがいい。上等なものを用意してくれたようだ。酒もうまい。たちまち瓶(720mℓ?)が空いて、2本目を奨めてくれた。そこまではよく覚えている。2本目もかなり空けたようなのだが、それからの記憶が全くない。目が覚めたら宿舎のベッドの中であった。酔いつぶれて自分の足では立てず、ご主人とモリキさんが肩をかついで運び込んでくれたという。しかも宿舎まではご主人運転の車で・・・。なんという酒豪。
   振り返ってみれば私もそんなに長くない時間で日本酒に換算すれば1升近くは飲んでいる。相当飲んではいたのだ。しかし相手は酔いつぶれた私を車に乗せて連れて帰ったのである。  週明けにすぐバオ先生にお礼とお詫びをした。しかし日本人の無作法に眉をしかめるどころか、招いた側としてそこまで心を許してくれた客に親しみを持ったようなのである。その後時々バオ先生から人前で「先生はお酒が上手(=強い)」と言われ、穴があったら入りたい気持ちであった。中国の酒豪は凄いと思うばかりである。

        
    モリキさん・バオ先生ご夫妻/今、我が家にある白酒 

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[日本語教師の中国滞在記]再投稿:山東省編#44-変わらずに来てくれる2年生

2025-03-06 18:15:00 | 日記

 

    後期になって1年生の授業が滑り出したが、担当ではなくなった2年生が疎遠にはならず宿舎によく来てくれた。以前と変わらずにというか以前に増してといえるくらいである。勿論こちらは大歓迎であった。キッチンで食事を作っての”パーティー”も少なくないが、単身用の宿舎だからリビングもキッチンもそんなに広くない。まあ昔の歌ではないけれど「狭いながらも楽しい我が家♪♪」と言ったところだろうか。私は学生が訪ねて来てくれた時はたいていデジカメで写真を撮って後でみんなにプリントしてあげた。学生たちはそれを日本語科の女性教師に見せては話題にすることがよくあったようだ。まだ先の話だが、一年の任期が終わりに近づいた頃女性教師側から「先生は帰るのですか。学生たちが残念がっています」と引き留めを受けたりした。そのことはまた別に書くが、このように交流の機会が多かったにも拘わらず宿舎でも日本語で通したため自分の中国語は全く上達しなかった。(能がないことの言い訳または負け惜しみです) しかし、学生同士でペチャクチャやり合っている会話は聞き取りはできないまでも実に楽しかった。
  ただ1年生の新規の来訪者より授業の担当を離れている2年生の方が多く、親しみ感も募って行った。

      

            

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