フォレスタの散歩道(パート4へ) 東日本大震災の20日前、2011年2月にスタートしたこのブログも1000回を超えた

概ね2~3日毎の更新、1回に3題の記事をめどとして来たが、以後間隔や記事の数などに捉われずに更新することとしたい。

間もなく3.11 三陸・田老の思い出

2022-03-09 09:41:27 | 日記

   また3月11日がやって来る。2011年の東日本大震災から今年は11年目となる。
あの震災の、忘れられないまた忘れてはならない甚大な被害とその教訓が語り継がれているが、その中で岩手県の田老地区が紹介される度に遠い昔の田老を思い出す。それは1965年、もう57年も前の大学2年の夏休みのことである。
    8月の5日に東京を発って18日帰京するまで2週間の一人旅であった。福島県の猪苗代湖をスタートに、ゴールは青森県八戸市、高校時代の親友の実家であった。途中仙台では私の名付け親という縁戚の家に身を寄せて七夕祭りや松島などの案内をしていただいたが、そのほかは一応の想定のコースを歩きながら成り行きで旅館などに泊った。
   田老はその中でのこと。岩手県宮古市の浄土ヶ浜から陸中海岸沿いを遊覧する船に乗り、奇岩に興味を惹かれて”田老”という船着き場で下船した。海に沿った遊歩道から車道に出て、バス停があったので時刻表を見ると先に行くにも後へもどるにもバスがもう無い。船の中から断崖の上に建物が見えたので、そっちの方向を目指して歩いて行くと、それは建設中の国民宿舎であった。その場にいた方に尋ねると、一部の部屋は使えるというので泊めてくれることになった。食堂などはまだ出来ていないので、なんと役場の方が車でかなり遠方まで夕食と翌朝食に連れて行ってくれた。その時私ともう一人宿泊者がいた。建設中の大きな建物内は何もなくてシ~ンとしており、床につくと荒波が岩にぶつかる潮騒の音がひと際大きく、夜中中聞こえた・・・いまだに記憶に残る田老の思い出である。


左=遊覧船で陸中海岸を眺めながら 中=目についた奇岩の近くで下船   右=断崖上の建物は建築中の国民宿舎であった(写真は当時撮ったもので白黒)

   それから約半世紀、田老の名は全国に大きく報じられることになる。それについては宮古市のホームページの一部を以下紹介したい。=写真下の( )内の注釈は私のもの=

【1896年(明治29年)の明治三陸大津波と1933年(昭和8年)の三陸大津波により壊滅的な被害を受けた田老地区(旧田老町)。これを受け、防潮堤の整備は昭和三陸大津波の翌年(昭和9年)から始まり昭和54年に整備が完了しました。町全体を囲む総延長2,433メートル、高さ10メートルの長大な防潮堤はかつて「万里の長城」と呼ばれていました。
また、旧田老町では、定期的に津波の避難訓練が行われたり、避難場所・避難経路を示す表示が多く設置されるなど津波に対する取り組みがなされていました。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災による津波は、この高さ10メートルの田老防潮堤を超え、田老の町を飲み込み、甚大な被害を及ぼしました。】

 
(左=震災前の防潮堤、右=津波により破壊された防潮堤)

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