平安夢柔話

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閑院流藤原氏の系譜 第2回

2007-06-16 13:02:25 | 系譜あれこれ
 お手数ですが、「閑院流藤原氏の系譜 第1回」からお読み下さい。

 今回は、公成の子供たちからその孫の代まで、つまり、閑院流藤原氏が天皇の外戚となっていく様子を、主な人物たちの経歴とともにお話ししたいと思います。


藤原公成

藤原実季・藤原茂子

 では、公成の子供たちのうち、上の二人について見てみます。

☆藤原実季(1035~1091)

 藤原公成男。母は藤原定佐女。

 永承元年(1046)に叙爵し、延久元年(1069)蔵人頭、同四年参議となり、以後、正二位大納言まで昇りました。この間、後の堀河天皇の春宮大夫を勤めていたことがありますが、このことは閑院流の繁栄を考える上で注目していいと思います。

 嘉承二年(1107)、女苡子(後述)に皇太后が追贈された折、実季にも正一位太政大臣が追贈されました。

☆藤原茂子(?~1062)

 藤原公成女。母は藤原知光女(『春記』による)。

 藤原公成の女として滋野井第に生まれました。後におば(公成の姉)の夫、藤原能信の猶子となり、永承元年(1146)十二月、春宮尊仁親王(後の後三条天皇)に入内しました。
 茂子と尊仁親王の仲は大変むつまじく、二人の間には貞仁親王・聡子内親王・俊子内親王・佳子内親王・篤子内親王が生まれました。しかし茂子は、尊仁親王が踐祚するのを見ずに亡くなってしまいます。

 茂子が亡くなってから6年後に尊仁親王は後三条天皇として踐祚したのですが、後三条天皇の春宮として立てられたのは、茂子が生んだ貞仁親王です。もし、後三条天皇の異母兄、後冷泉天皇と、摂関を務めた頼通・教通の娘たちとの間に皇子が誕生していたら、貞仁親王が春宮になることはなかったと思われます。その点、貞仁親王は大変な幸運の星の下に生まれたと言えそうです。

 後三条天皇の退位後、貞仁親王は白河天皇として踐祚、閑院流藤原氏はついに、天皇の外戚となったわけです。そのようなことから、白河天皇の母の茂子は重要な人物だということができると思います。

 なお、茂子は永井路子さんの藤原能信を主人公にした小説『望みしは何ぞ』に登場しています。その中で茂子は、何事にも物怖じしない、明るくさばさばした女性に描かれています。もちろんこれは永井さんの創作だと思いますが、案外、茂子の実像に近いように思えます。そんな彼女の性格が、白河天皇にも受け継がれているのではないでしょうか。



藤原公実・藤原苡子

 では次に、藤原実季の子供達について見てみます。

☆藤原公実(1053~1107)

 藤原実季男。母は藤原経平女。

 後三条天皇踐祚とともに累進し、後三条・白河天皇の宮廷で時めいた人です。閑院流藤原氏が天皇の外戚になったおかげで恩恵を受けたと言えそうです。

 承暦四年(1180)参議となり、最終的には正二位権大納言に昇進しました。妻は従二位藤原光子、彼女は堀河・鳥羽両院の乳母です。このあたりも、公実が宮廷で実力を持つための大きな助力になったのでしょうね。

 歌人としても知られ、残欠本ですが家集に『公実集』があり、『後拾遺』以下の勅撰集に入集。藤原通俊・藤原顕季ら歌人たちとも親しかったため、公実自身も歌人として成長していったようです。
 堀河朝になると藤原基俊・源俊頼を庇護するなど、歌壇のパトロン的存在でもありました。 

<藤原公実について追記>
 公実について、咲希さんより掲示板No656にて情報を頂きました。咲希さん、ありがとうございます。(^_^)

 鳥羽天皇が踐祚したとき、公実は、摂関家の当主忠実の若年なるを侮って、幼帝の外舅の地位にある自らこそ摂政に就任すべしと主張します。しかし、「四代もの間、諸大夫として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話があるそうです。 

 この源俊明という人は醍醐源氏で、白河上皇の側近として重く用いられていた人でした。もし彼がいなかったら、閑院流が摂関家になっていたかもしれません。その点、摂関家にとっては俊明は大恩人だったと言えそうです。

☆藤原苡子(1076~1103)

 藤原実季女。母は藤原経平女。

 承徳二年(1098)十月、堀河天皇の許に入内します。苡子は白河上皇(堀河天皇の父)のいとこに当たり(苡子の父、実季と、白河天皇の母、茂子はきょうだい)、入内については白河上皇が沙汰したと伝えられます。

 その年の十二月に女御となり、間もなく懐妊しますが、翌年四月に流産します。
 康和四年(1102)八月、再び懐妊した苡子は着帯の儀を行い、翌五年正月十六日に皇子(後の鳥羽天皇)を出産しますが、二十五日ににわかに病んで卒します。嘉承二年(1107)、皇太后が追贈されました。

 鳥羽天皇の即位により、閑院流藤原氏と天皇家はさらに強い血縁関係で結ばれたことになります。



藤原実隆・藤原実行・藤原通季・藤原実能・藤原季成・藤原璋子・源有仁室・藤原経実室

 上で挙げたのは藤原公実の子供たちです。

 このうち、実行が三条家の祖、通季が西園寺家の祖、実能が徳大寺家の祖となります。そのため、以上3人については次回に記述することにし、残りの人物について書いてみることにします。

☆藤原実隆(1079~1127)

 藤原公実一男。母は藤原基貞女。藤原実行は同母弟。

 応徳二年(1085)に叙爵。春宮(宗仁親王、のちの鳥羽天皇)権亮、白河院別当等を歴任します。嘉承元年(1106)蔵人頭となり、天永二年(1111)、参議に任じられ、最終的には正三位中納言にまで昇進しました。大治二年(1127)、飲水病(糖尿病)にて薨去。子には参議公隆・興福寺別当覚珍らがいます。

☆藤原季成(1102~1165)

 藤原公実男。母は藤原通家女。

 天永三年(1112)に叙爵。長承三年(1134)蔵人頭に補され、保延二年(1136)参議に任ぜられ、後に権大納言に至り、加賀守を勤めたことがあったため加賀大納言と呼ばれました。和琴や書に秀でていたと伝えられます。

 なお、彼の娘には後白河天皇の寵愛を得て「高倉三位」と称された成子がいます。彼女が後白河天皇との間にもうけた子として、守覚法親王、以仁王、亮子内親王(殷富門院)、式子内親王らがいます。つまり季成は、これら歴史に名前を残した皇子皇女らの外祖父ということになります。

☆藤原璋子(1101~1145)

 藤原公実女。母は藤原光子(堀河・鳥羽両天皇乳母)

 幼い頃、祇園女御の猶子となり、その縁で白河法皇の猶子ともなり、院御所で育てられました。
 15歳頃から、白河法皇とのただならぬ仲が噂されますが、永久五年(1117)、17歳の時に鳥羽天皇に入内、女御から中宮に立てられます。

 元永二年(1119)、第一皇子顕仁親王を生みますが、(「顕仁親王は白河法皇の子供だ」と噂されました。顕仁親王は5歳で踐祚、崇徳天皇となります。崇徳天皇踐祚には、白河法皇の力が働いていたと言われます。

その後、璋子は禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王(上西門院)・雅仁親王(のちの後白河天皇)・本仁親王(のちの覚性法親王)の6人の子女をもうけます。天治元年(1124)、女院号「待賢門院」が授けられます。この頃はまだ、鳥羽上皇とも仲むつまじかったようですし、何よりも白河法皇の強い庇護がありました。

 しかし、大治四年(1129)の白河法皇の崩御とともに、璋子の人生も暗転します。さらに長承三年(1134)、藤原得子(後の美福門院)が入内すると、鳥羽上皇の寵愛は得子に移り、璋子はすっかり目立たない存在となってしまいます。璋子は双丘の東麓に法金剛院を建立し、ここで過ごすことが多くなったようです。

 康治元年(1142)、落飾。久安元年(1145)八月二十二日、兄の藤原実行の三条第(三条南、高倉東)において鳥羽法皇臨御のもとに崩じ、法金剛院の北に接した五位山の花園西陵に葬られました。

 璋子は波乱に富んだ生涯を送ったと言えますが、崇徳・後白河両天皇の母となり、閑院流藤原氏の更なる発展の基礎を作った女性とも言えそうです。晩年は仏教に帰依することが多かったようですが、どのような気持ちで毎日を過ごしていたのでしょうか。

*璋子についてはこちらの記事も参考になさってみて下さい。

☆璋子以外の娘たち

 璋子以外の公実の娘として、源有仁(輔仁親王男)の妻となった女性、、藤原経実(藤原師実男)の妻となった女性などがいます。

 このうち経実室は、経実との間に経宗、懿子をもうけました。懿子は、おばの夫である源有仁の猶子となり、後白河天皇の後宮に入って二条天皇をもうけました。

☆次回は、公実の他の3人の子供たちと、彼らが祖となったそれぞれの家(三条家・西園寺家・徳大寺家)について紹介することにします。現在放映中のNHK大河ドラマ「風林火山」にも登場しているあの方も出てきますので、お楽しみに。

☆第3回に続く


☆参考文献
 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
 『望みしは何ぞ』 永井路子 中央公論新社


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