「尊卑分脈」などの歴史上の人物たちの系図類は、主に男系中心で書かれています。しかし、系譜というものは男系ばかりではありません。女系もあります。そして、女系から歴史上の人物たちの系譜を眺めてみると、色々な面白い発見ができるものです。今回はそんなお話をさせていただきますね。
源博雅(918~980)と言うと、小説や映画「陰陽師」で安倍晴明とコンビを組んでいる人物ですね。史実的には、実際に博雅が晴明とコンビを組んで活躍していたかどうかは定かではありませんが…。いずれにしても、平安時代の人物の中では知名度のある人物だと思います。博雅は最終的には従三位皇太后宮権大夫になっています。
一方、博雅と同じ時代を生きた人の中に、彼よりも2歳年下の源雅信(920~993)という人物がいます。この方は道長の妻倫子の父親で、最終的には左大臣にまで昇進した人物です。この方も、平安時代の人物の中ではわりに知名度のある方だと思います。
この二人の系譜ですが、博雅は醍醐天皇の皇子克明親王の子になります。つまり醍醐天皇の孫ということですね。
一方の雅信は、宇多天皇(醍醐天皇の父)の皇子敦実親王の子です。つまり宇多天皇の孫ということになります。
そこで二人の血縁関係は、博雅の父親のいとこが雅信ということになります。
しかし、二人の関係を女系から見ると、もっと近い関係になるのです。というのは、二人の母親は供に藤原時平の娘で姉妹だったからです。つまり、博雅と雅信は母方のいとこ同士ということになります。私は講談社学術文庫版の「大鏡」を読んでいて二人がいとこ同士だという事実を見つけました。そしてとてもわくわくしました。
この時代はまだ、母親を通してのつながりが非常に強い時代だと思われます。となると、博雅と雅信も親しい交流があったのではないかと、推察したくなってきます。二人とも笛の名手なので、一緒に合奏をすることもあったかもしれません。
実際、康保三年(966)に村上天皇の御前で行われた殿上侍臣楽舞御覧では、博雅が横笛を、雅信が笙を吹いています。二人の笛の才能は、近い血縁のおかげなのでしょうか。
さて、歴史をたどればこのような女系からの血縁が政治を動かした……という出来事もありました。
元慶八年(884)、陽成天皇は、内裏で殺人事件を起こし、関白藤原基経(836~891)によって退位させられます。陽成天皇は普段から問題行動が多く、基経と意見が対立することも多かったため、基経にとっては殺人事件が渡りに船だったかもしれません。
しかし、問題となったのは次の天皇です。陽成天皇の皇太子は定まっていませんでしたので…。そこで公卿たちは会議を開き、次の天皇を決めることになりました。
誰も意見を言う者がない中、一人だけ口を開いたのが左大臣源融でした。融は、
「近い皇統をたどればこの融もいますぞ。」
と言ったのです。確かにもともと融は嵯峨天皇(陽成天皇の高祖父)の皇子で、臣籍に下った人でした。しかし融はかなり権力欲が強い人で、「うまく行けば私が天皇になれるかもしれない」と思ったのかもしれませんね。
しかし基経は、
「一度臣籍に下った者が再び皇族となり、位についた先例はござらぬ。」とはねつけました。
この時、基経の心はすでに決まっていたのでした。人望もあり、性格も温厚な時康親王(830~887)を位につけようと…。時康親王は仁明天皇の皇子で、退位させられた陽成天皇から見ると祖父の弟に当たる人物でした。
時康親王はこの時踐祚して光孝天皇となったのですが、彼が踐祚できた理由は人望があったことと温厚な性格だったことはもちろんなのですが、その他に大きな理由がありました。つまり、光孝天皇と藤原基経は母方のいとこ同士だったのです。
、 光孝天皇の母は藤原沢子、藤原基経の母は藤原乙春、二人は藤原総継(奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫)の娘で姉妹でした。そのようなわけで、基経と光孝天皇は若い頃から行き来があり、親しい交流があったのかもしれません。基経も、「気心の知れたいとこの時康親王とならうまくやっていけるかも知れない」という考えが全くなかったとは言えないと思います。
光孝天皇は踐祚すると、自分の皇子皇女をすべて臣籍に降下させてしまいます。これは、基経の血を引いていない自分の皇子を皇太子にすることを避けるためだったとも言われています。このように光孝天皇は基経にはとかく気を使っていたようです。なので光孝天皇の御代は大きなもめ事もなく、平和だったということです。基経の判断は正しかったと言えるでしょうね。
源博雅(918~980)と言うと、小説や映画「陰陽師」で安倍晴明とコンビを組んでいる人物ですね。史実的には、実際に博雅が晴明とコンビを組んで活躍していたかどうかは定かではありませんが…。いずれにしても、平安時代の人物の中では知名度のある人物だと思います。博雅は最終的には従三位皇太后宮権大夫になっています。
一方、博雅と同じ時代を生きた人の中に、彼よりも2歳年下の源雅信(920~993)という人物がいます。この方は道長の妻倫子の父親で、最終的には左大臣にまで昇進した人物です。この方も、平安時代の人物の中ではわりに知名度のある方だと思います。
この二人の系譜ですが、博雅は醍醐天皇の皇子克明親王の子になります。つまり醍醐天皇の孫ということですね。
一方の雅信は、宇多天皇(醍醐天皇の父)の皇子敦実親王の子です。つまり宇多天皇の孫ということになります。
そこで二人の血縁関係は、博雅の父親のいとこが雅信ということになります。
しかし、二人の関係を女系から見ると、もっと近い関係になるのです。というのは、二人の母親は供に藤原時平の娘で姉妹だったからです。つまり、博雅と雅信は母方のいとこ同士ということになります。私は講談社学術文庫版の「大鏡」を読んでいて二人がいとこ同士だという事実を見つけました。そしてとてもわくわくしました。
この時代はまだ、母親を通してのつながりが非常に強い時代だと思われます。となると、博雅と雅信も親しい交流があったのではないかと、推察したくなってきます。二人とも笛の名手なので、一緒に合奏をすることもあったかもしれません。
実際、康保三年(966)に村上天皇の御前で行われた殿上侍臣楽舞御覧では、博雅が横笛を、雅信が笙を吹いています。二人の笛の才能は、近い血縁のおかげなのでしょうか。
さて、歴史をたどればこのような女系からの血縁が政治を動かした……という出来事もありました。
元慶八年(884)、陽成天皇は、内裏で殺人事件を起こし、関白藤原基経(836~891)によって退位させられます。陽成天皇は普段から問題行動が多く、基経と意見が対立することも多かったため、基経にとっては殺人事件が渡りに船だったかもしれません。
しかし、問題となったのは次の天皇です。陽成天皇の皇太子は定まっていませんでしたので…。そこで公卿たちは会議を開き、次の天皇を決めることになりました。
誰も意見を言う者がない中、一人だけ口を開いたのが左大臣源融でした。融は、
「近い皇統をたどればこの融もいますぞ。」
と言ったのです。確かにもともと融は嵯峨天皇(陽成天皇の高祖父)の皇子で、臣籍に下った人でした。しかし融はかなり権力欲が強い人で、「うまく行けば私が天皇になれるかもしれない」と思ったのかもしれませんね。
しかし基経は、
「一度臣籍に下った者が再び皇族となり、位についた先例はござらぬ。」とはねつけました。
この時、基経の心はすでに決まっていたのでした。人望もあり、性格も温厚な時康親王(830~887)を位につけようと…。時康親王は仁明天皇の皇子で、退位させられた陽成天皇から見ると祖父の弟に当たる人物でした。
時康親王はこの時踐祚して光孝天皇となったのですが、彼が踐祚できた理由は人望があったことと温厚な性格だったことはもちろんなのですが、その他に大きな理由がありました。つまり、光孝天皇と藤原基経は母方のいとこ同士だったのです。
、 光孝天皇の母は藤原沢子、藤原基経の母は藤原乙春、二人は藤原総継(奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫)の娘で姉妹でした。そのようなわけで、基経と光孝天皇は若い頃から行き来があり、親しい交流があったのかもしれません。基経も、「気心の知れたいとこの時康親王とならうまくやっていけるかも知れない」という考えが全くなかったとは言えないと思います。
光孝天皇は踐祚すると、自分の皇子皇女をすべて臣籍に降下させてしまいます。これは、基経の血を引いていない自分の皇子を皇太子にすることを避けるためだったとも言われています。このように光孝天皇は基経にはとかく気を使っていたようです。なので光孝天皇の御代は大きなもめ事もなく、平和だったということです。基経の判断は正しかったと言えるでしょうね。