平安夢柔話

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源博雅と源雅信 藤原基経と光孝天皇

2006-05-25 19:53:36 | 系譜あれこれ
 「尊卑分脈」などの歴史上の人物たちの系図類は、主に男系中心で書かれています。しかし、系譜というものは男系ばかりではありません。女系もあります。そして、女系から歴史上の人物たちの系譜を眺めてみると、色々な面白い発見ができるものです。今回はそんなお話をさせていただきますね。

 源博雅(918~980)と言うと、小説や映画「陰陽師」で安倍晴明とコンビを組んでいる人物ですね。史実的には、実際に博雅が晴明とコンビを組んで活躍していたかどうかは定かではありませんが…。いずれにしても、平安時代の人物の中では知名度のある人物だと思います。博雅は最終的には従三位皇太后宮権大夫になっています。

 一方、博雅と同じ時代を生きた人の中に、彼よりも2歳年下の源雅信(920~993)という人物がいます。この方は道長の妻倫子の父親で、最終的には左大臣にまで昇進した人物です。この方も、平安時代の人物の中ではわりに知名度のある方だと思います。

 この二人の系譜ですが、博雅は醍醐天皇の皇子克明親王の子になります。つまり醍醐天皇の孫ということですね。
 一方の雅信は、宇多天皇(醍醐天皇の父)の皇子敦実親王の子です。つまり宇多天皇の孫ということになります。
 そこで二人の血縁関係は、博雅の父親のいとこが雅信ということになります。
 しかし、二人の関係を女系から見ると、もっと近い関係になるのです。というのは、二人の母親は供に藤原時平の娘で姉妹だったからです。つまり、博雅と雅信は母方のいとこ同士ということになります。私は講談社学術文庫版の「大鏡」を読んでいて二人がいとこ同士だという事実を見つけました。そしてとてもわくわくしました。

 この時代はまだ、母親を通してのつながりが非常に強い時代だと思われます。となると、博雅と雅信も親しい交流があったのではないかと、推察したくなってきます。二人とも笛の名手なので、一緒に合奏をすることもあったかもしれません。
 実際、康保三年(966)に村上天皇の御前で行われた殿上侍臣楽舞御覧では、博雅が横笛を、雅信が笙を吹いています。二人の笛の才能は、近い血縁のおかげなのでしょうか。


 さて、歴史をたどればこのような女系からの血縁が政治を動かした……という出来事もありました。

 元慶八年(884)、陽成天皇は、内裏で殺人事件を起こし、関白藤原基経(836~891)によって退位させられます。陽成天皇は普段から問題行動が多く、基経と意見が対立することも多かったため、基経にとっては殺人事件が渡りに船だったかもしれません。

 しかし、問題となったのは次の天皇です。陽成天皇の皇太子は定まっていませんでしたので…。そこで公卿たちは会議を開き、次の天皇を決めることになりました。

 誰も意見を言う者がない中、一人だけ口を開いたのが左大臣源融でした。融は、
「近い皇統をたどればこの融もいますぞ。」
 と言ったのです。確かにもともと融は嵯峨天皇(陽成天皇の高祖父)の皇子で、臣籍に下った人でした。しかし融はかなり権力欲が強い人で、「うまく行けば私が天皇になれるかもしれない」と思ったのかもしれませんね。

 しかし基経は、
「一度臣籍に下った者が再び皇族となり、位についた先例はござらぬ。」とはねつけました。

 この時、基経の心はすでに決まっていたのでした。人望もあり、性格も温厚な時康親王(830~887)を位につけようと…。時康親王は仁明天皇の皇子で、退位させられた陽成天皇から見ると祖父の弟に当たる人物でした。

 時康親王はこの時踐祚して光孝天皇となったのですが、彼が踐祚できた理由は人望があったことと温厚な性格だったことはもちろんなのですが、その他に大きな理由がありました。つまり、光孝天皇と藤原基経は母方のいとこ同士だったのです。

、 光孝天皇の母は藤原沢子、藤原基経の母は藤原乙春、二人は藤原総継(奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫)の娘で姉妹でした。そのようなわけで、基経と光孝天皇は若い頃から行き来があり、親しい交流があったのかもしれません。基経も、「気心の知れたいとこの時康親王とならうまくやっていけるかも知れない」という考えが全くなかったとは言えないと思います。

 光孝天皇は踐祚すると、自分の皇子皇女をすべて臣籍に降下させてしまいます。これは、基経の血を引いていない自分の皇子を皇太子にすることを避けるためだったとも言われています。このように光孝天皇は基経にはとかく気を使っていたようです。なので光孝天皇の御代は大きなもめ事もなく、平和だったということです。基経の判断は正しかったと言えるでしょうね。

平安時代の女流作家たちの血縁・姻戚関係

2005-05-13 10:06:07 | 系譜あれこれ
 今回は、『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』「更級日記」の作者たちの血縁関係と姻戚関係のお話しです。ちょっと複雑な話になってしまうかもしれませんが、おつき合い頂けると嬉しいです。

 まず『蜻蛉日記』の作者は『更級日記』の作者の伯母に当たります。
『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱の母は、藤原倫寧という人の娘です。そして、「更級日記」の作者の母は、道綱の母の妹に当たるのです。
 これについては、『蜻蛉日記』の終わりの方に、「父の所で出産のことがあり」という記事が出てきます。この前年に一条の大殿(藤原伊尹)が亡くなったという記事があることから、この出産のあった年は天延元年(973)と推定されます。
 この頃、道綱の母は37、8歳になっています。父の倫寧もかなりの年齢だったと思うのですが、奥様に子供が産まれたのですね…。これって、今の私に突然妹ができるようなものなので、道綱の母もきっと驚いたことでしょう。
 それはともかくとして、この時に産まれた子供が、のちに菅原孝標の妻となり、寛弘五年(1008)に『更級日記』の作者を産むことになるのです。ただ、道綱の母は長徳元年(995)に亡くなっていますので、二人は会うことはなかったのですが…。でも、『更級日記』には明らかに『蜻蛉日記』を意識して書かれた部分があります。物詣でや夢のお告げの記事が多いことなどがそうではないでしょうか。

 さて、『蜻蛉日記』は家族に関する記事が多いことにも目を引きます。その一つに、母の一周忌が済んだあと、姉が国司となった夫と共に遠国に旅立つ記事があります。
 この姉と道綱の母は大変仲が良く、しかも道綱の母は姉をとても頼りにしていたようです。なので、姉が遠国に行ってしまうことは、道綱の母にとっては痛手だったことでしょう。

 ところで、この姉の夫は藤原為雅といい、藤原文範という人の子息です。そして、為雅の兄弟に為信という人がいますが、何とこの方は紫式部の母方の祖父に当たります。つまり、道綱の母の姉は紫式部の大叔母になるわけなのですよね。これは思いがけない発見でした。
 確かに『源氏物語』の六条御息所と葵の上の車争いは、『蜻蛉日記』の道綱の母と時姫の車争いを連想させられます。また、この二つの作品は「女の嫉妬」とか、「女の生き方」など、共通のテーマを持っているような気がするのです。しかも姻戚に当たることから、紫式部はかなり早い時期に『蜻蛉日記』を読んでいたように思えます。紫式部は、『源氏物語』を書くとき、かなり『蜻蛉日記』を意識していたのではないでしょうか。
 ちなみに道綱の母も紫式部の母方も、藤原長良(藤原冬嗣の子息)の子孫なのでお互いに遠い親戚ということにもなります。

 道綱の母と紫式部が姻戚であり遠い親戚だったということは驚きでしたが、実はもう一人、道綱の母と姻戚だった女流作家がいます。
 道綱の母には多くの兄弟姉妹があったようです。先に挙げた為雅の妻もそうですが、歌人として有名な藤原長能もその一人です。彼は、後に大江匡房が著した『続本朝往生伝』の中の「一条天皇御代の優れた人物たち」の「和歌」の部分に名前が載っています。
このように、藤原倫寧の家系は、歌や文学の才能に優れた人が多かったようです。
 そのような兄弟姉妹の一人に、藤原利能という人がいます。そして、この方の妻は清原元輔の娘です。つまり、清少納言の姉に当たります。と言うことは……、道綱の母と清少納言は義理の姉妹になるわけなのですよね。これも驚きでした。清少納言もまた当然『蜻蛉日記』を読んでいたと考えられます。確かに、私小説的な部分を持っているところは、この二つの作品は似ているかもしれません。

 この頃の貴族社会は近親結婚も多く、どこかでつながっていると言えばそれまでなのですが、『源氏物語』『枕草子』『蜻蛉日記』『更級日記』の作者同士がこうして血縁・姻戚だったというのは面白いなと思いました。
 ついでに、まだつながっている女流作家はいないかと調べてみたのですが、和泉式部や赤染衛門には、彼女たち4人につながる血縁・姻戚関係を見つけることができませんでした。でも、赤染め衛門と和泉式部は紫式部の同僚ですから(二人とも一条天皇中宮彰子の女房)、つながっていると言えばつながっているのですが…。

 このように血縁、姻戚関係のある女性たちが、お互いの作品を読み、色々影響し合って優れた物語や日記を書いていたのですよね。特に、『蜻蛉日記』がのちの物語や日記に及ぼした影響は大きいように思えます。そんなことを考えると興味が尽きないです。

平清盛の子孫

2005-01-10 23:22:11 | 系譜あれこれ
 平清盛の男系の子孫は、壇ノ浦合戦でほとんど絶えてしまったと言われています。平家軍団から脱落した平維盛(清盛の孫)も、熊野から入水したと言われていますし、都に残っていた六代御前(維盛の子息)も、一時は文覚上人の助命運動によって命を助けられますが、のちに鎌倉幕府の命令によって斬首されます。
 なお、平頼綱(鎌倉幕府の実力者)と、織田信長(戦国時代の武将)が、維盛の弟資盛の後裔を称していますが確証はありません。

 ところが、清盛の娘の子孫を調べていくうちに面白いことがわかりました。何と天皇家とつながっていたのです。こう書くと、「清盛の娘の徳子(のちの建礼門院)が高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を産んだので、天皇家とつながっているのでは……」と思われるでしょうけれど。安徳天皇は8歳の時に壇ノ浦で入水自殺をしていますので子はなく、系譜はとぎれてしまっています。今からお話しする系譜は、現在でもしっかり続いている系譜なのです。

 清盛には、徳子の他にも何人か娘がいたようです。そのうちの一人は、藤原隆房という人と結婚しました。吉屋信子さんの小説「女人平家」では佑姫という名前で登場し、相思相愛だった大江広元と無理やり引き離され、藤原隆房に嫁がされた悲運の女性として描かれています。
 この清盛女の夫となった藤原隆房は、藤原秀郷や奥州藤原氏、藤原道長の母時姫と同じく、奈良時代に左大臣にまで昇進した藤原魚名(北家の房前の子)の子孫になります。隆房自信は、「平家物語」での小督局とのロマンスで有名です。また、壇ノ浦で命を助けられた建礼門院を手厚く世話しています。

 隆房と清盛女との間に産まれたのが藤原隆衡です。そして隆衡の娘が北山の准后と呼ばれることとなる藤原貞子です。
 貞子は、西園寺家の藤原実氏と結婚しました。西園寺家は、藤原公季(藤原兼家の弟で道長の叔父)を祖とする藤原氏閑院流の一派です。実氏は太政大臣にまで昇進しました。そして、実氏と貞子の間に産まれたのが藤原(女吉)子です。(女吉)子は、後嵯峨天皇の後宮に入って中宮となり、後深草天皇と亀山天皇の母となりました。
 つまり、後深草天皇と亀山天皇は清盛女の玄孫ということになります。現在の皇統は後深草天皇の子孫ですので、今上天皇も清盛の子孫ということになります。清盛の男系の子孫は絶えてしまいましたが、女系はこんな風にして天皇家につながっていたなんて……。やっぱり系譜は面白いです。

 なお、貞子の兄弟に藤原隆親という人がいます。隆親の娘は大納言典侍と呼ばれ、後深草天皇の乳母でした。そして、彼女と源雅忠との間に産まれたのが、「とはずがたり」の作者後深草院二条です。宮廷生活の中で何人かの男性と交渉を持ち、のちに出家して諸国を行脚したという波乱の人生を送ったこの女性も、清盛の子孫だったのです。

参考文献・平家後抄 角田文衞著 講談社学術文庫

今川義元の祖先

2004-12-23 12:41:38 | 系譜あれこれ
 昨日の日記にも書きましたが、私は静岡県に住んでいます。戦国時代、このあたりを治めていたのは今川氏、室町幕府を開いた足利尊氏を出した足利氏の一族という名門です。
 その今川氏で一番知名度があるのは今川義元だと思います。でも、今川義元と聞いてみなさまは真っ先に何を思い出すでしょうか?「ああ、織田信長の引き立て役で、お歯黒をつけていた人ね。」と思われる方が多いのではないでしょうか。
 確かに…、私が以前観に行ったことのある戦国サイトで、「戦国武将人気ランキング」というのをやっていましたが、義元さんはベスト20にも入っていませんでした。やはり、桶狭間で油断したために信長に討たれたイメージは大きいのでしょうね。
でも、当時2万5千にも及ぶ大軍を率いての上洛はすごいことなのです。そのおごりが本当に大きな油断になったことと、思わぬ天候の急変による桶狭間での休息にならざるを得なかったという不運…。このようなことが重なったための大敗であり、世間で言われているほど愚かな武将ではなかったと私は思っています。
 事実、この義元さん、なかなか立派な人物だったようなのです。「東海一の弓取り」と言われていましたし、領土も駿河だけでなく、遠江、三河、尾張の一部にまで拡げています。そして、かなり善政を行っていたようです。このあたりのことを考えると、義元さんは有能な武将だったと思います。また、駿河が甲斐、相模と三国同盟を結んだときも、義元さんは大きな役割を果たしています。
 地元でも人気がなかった義元さんですが、最近では、「義元さんを見直そう。」という気運が高まっています。今年の九月には、小和田哲男先生がミネルヴァ日本評伝選から「今川義元」を出版されました。私はまだ未購入ですが、自分へのお年玉のつもりで買ってみようかなと思っています。

 さて、今からお話しするのはその義元さんの祖先のお話です。

 義元さんのお母様は京都の貴族の娘で、二十歳頃に駿河の大名今川氏親の許に嫁いできたと推定されています。そして、氏親との間に義元を初め数人の子供をもうけました。
 その義元さんのお母様ですが、祖先をたどっていくと、何と紫式部のだんなさま、藤原宣孝さんにたどり着くのです。びっくりされた方もいらっしゃると思いますので、そのあたりを少し書かせていただきますね。

 宣孝さんの息子に、藤原隆光さんという方がいます。この方は、宣孝さんに先立たれた紫式部に言い寄ったことで有名です。そのような紫式部の経験が、「源氏物語」の空蝉と紀伊守(のちの河内守)の話を生んだとも言われています。
 藤原隆光の孫に、藤原為房という方がいます。参議大蔵卿にまで昇進し、「名家」勧修寺流の祖となった人です。為房のあとは、為隆→光房と続き、光房の子が吉田家の祖となる権大納言藤原経房です。源平時代に後白河上皇の側近として活躍した人で、その日記「吉記」は現在でも当時の貴重な史料となっています。
 その吉田家の傍流に、中御門(なかのみかど)という家があります。その中御門家から室町時代に権大納言にまで昇進した宣胤という人が出ていますが、その宣胤の娘が今川氏親の妻、つまり義元さんの母です。

 長々とお話ししてきましたが、つまりは、今川義元さんは藤原宣孝さんのれっきとした直系の子孫なのです。地元のお殿様が、紫式部のだんなさまとつながっていることを知ったときは、「きゃあ~!♪」という感じでした。そう考えると、系譜って面白いです。そして、「もっと義元さんを大切にしてあげなくては。」と思いました。

 このような面白い系譜の話はまだまだたくさんありますので、時折書かせていただきたいと思っています。また読んで下されば嬉しいです。

なお、今川義元母については、小説ですが永井路子さんの「姫の戦国(文春文庫)」という著書があります。この小説では、義元さんのお母様は自分の道を自ら切り開いていく、頼もしい女性に描かれていて好感が持てました。興味がございましたらぜひご一読を。