3日前の10月29日(土)、夜来の雨は上がり、「東京歴史散歩」は比較的穏やかな気候のなか無事終了した。
都高教退職者会主催の今年の歴史散歩は、柳沢信鴻の『宴遊日記』の、ある日の日記に記された道筋とほぼ同じ道を辿って六義園から、金杉通りに面する三島神社までを散策しようとの計画。私が企画し、道先案内人も務させて頂いた。
9時30分過ぎ、六義園正門前に集合した方は9名。自己紹介の後、私から資料の紹介。向丘高校元同僚真中さん作成のプリントを綴じたもの他、台東区・文京区の地図などを用意。
辿ったルートは、六義園→富士神社→天祖神社→動坂遺跡→動坂→赤紙不動→与楽寺→六阿弥陀道→浄光寺→諏訪坂→音無川暗渠→善性寺→御行松→竹隆堂→金杉通り→三島神社。
9時40分に六義園発。富士神社からは妻も加わり総勢10名となった。実は、約束をした12時30分には三島神社に到着したかった。13時からは「品味亭」での懇親会の予約もしていた。何とかこの時刻に到着したい私と、ゆっくりと寺院などを見学したい人との思いの差が大きく、集団は離れ離れになりがちだった。3時間の間に上記コースを回ることは無理な計画とは思ってはいたが、私などが一歩先にお寺に着いて暫し待っていることが多かった。欲張り過ぎた計画だったかと反省している。
回ったところの一口メモ。
富士神社 「一富士 二鷹 三茄」のうち一は駒込富士神社のこと。鷹匠は現在の駒込病院に変身している。
天祖神社 駒込村の総鎮守。頼朝が立ち寄ったとの社伝あり。4年に一度の神幸祭では4トンの神輿を担ぐ。
動坂遺跡 駒込病院外溝工事時に発見された。縄文時代の貝塚。20軒の集落址あり。
動坂 かつての名称は「不動坂」。道沿いにあった「目赤不動尊」が名称の由来。
赤紙不動 東覚寺の仁王様は真っ赤。患部に対応する箇所に赤紙を貼って治癒を願う。
与楽寺 六阿弥陀寺の一つ。弘法大使作と言われる地蔵菩薩は賊除地蔵の別名あり。
六阿弥陀道 行基が一夜のうちに刻み上げた六阿弥陀仏を祀る寺を1番寺~6番寺まで回る道筋。
浄光寺 かつては諏方神社の別当。別名雪見寺。空無上人勧請の地蔵菩薩立像が名高い。
音無川暗渠 石神井川を上流とする音無川は山谷堀となり隅田川に注いでいた。今は暗渠。
善性寺 六代将軍家宣の母長昌院を祀る。しばしば家宣の御成りがあった。音無川に架かった門前の橋が将軍橋。
芋坂 善性寺門前から谷中墓地への上る坂。『吾輩は猫である』に登場。子規のは句「芋坂も団子も月のゆかりかな」
御行松 江戸期“根岸の松”と人々に親しまれた。『江戸名所図会』や広重の錦絵に登場。今はラジオ体操会場。
竹隆庵 名物こごめ大福はここの銘菓で一個230円。包み紙には御行松が描かれている。
金杉通り 古くから日光へと続く街道で、今でも町屋の風情が残る。 往時はたいそうな賑わいを見せた。
さて最後がその日の圧巻の三島神社。謂れは16/7/19のブログなどに書いたので省略するが、12時40分と10分ほど遅れた私たちを宮司河野正枝さんは温かく迎えて下さった。まずは本殿に導かれ、ご祈祷をして頂いた。その後広間でお茶とお菓子の接待を受けた。
お話は、女性宮司としての苦労話。宮司になって間もない頃「どんな処のご祈祷でもお受けします」と出掛けて行った場所は囲いのないビルの屋上。4階から手摺のみで8階に上り、屋上では強い風に煽られ今にも落下しそうな状態でのご祈祷。「死ぬかと思いました。それこそ決死の覚悟」との話を聞いて、台東区で初の女性宮司さんとなられた方のご苦労を一同10人、成程と頷いてお聞きしたのでありました。(宮司を交え記念撮影)
「品味軒」での懇親会は2時間ほど。有志6名は鶯谷駅そばの本三島神社にも参拝。
(お話を終えてニコヤカナ河野さん)