北村薫の新作『遠い唇』を読んだ。
現役時代よりも通うことの多くなった日本教育会館内に付属の図書館があり、利用者は公共図書館よりも遥かに少ないことを知った。文京区などの公立図書館へ『遠い唇』をリクエストしても、人気作家の新作が回ってくるのは相当遅くなることが予想され、この本は「教育図書館」に予約した。1ヶ月を経ずして「本のご用意出来ました」とのメールが届いた。
北村薫は好きな作家の一人で、作品は殆ど読んでいた。最近の著作では、荒川5中の大島先生から『太宰治の辞書』をお借りしたし、昨年8月には『八月の六日間』の影響を受けたこともあり、北アルプス最奥にある「高天ヶ原温泉」にまで足を延ばしたこともあった。
新作は7編の短編ミステリーからなる。この短編集でもそうだが、殺人事件は滅多に起こらない。北村作品は、日常生活にひそむ謎から意外な真実が浮かび上がるといった構成が多いと思うが、この作品集も同じで、更には、人生の哀歓を感じさせられることともなる。読後感は爽やかである。7編の短編のなかでは特に表題の「遠い唇」と「ビスケット」を面白く読んだ。
さて「遠い唇」。冒頭に主人公が紹介される。“分かり切った固有名詞が、時折、出てこない。そのくせ、半世紀近く前に聞いた言葉が、突然、はっきりと浮かんできたりする”とは、私のことではない。この文章から主人公が高齢であることが分かる。北村薫は文章が上手いと思う。
現在は大学教授の寺脇はコーヒーの香りに誘われて、大学時代に同じサークルにいた長内先輩を思い出します。
彼女は喫茶店で、ノートに“大學に来て踏む落葉コーヒー欲る”と草田男の句を書いて寺脇に見せたりした、美しい人。
彼は年上の彼女にほのかな憧れを抱いていました。遠い遠い昔のこと。
ある日、彼女から暗号めいたものを交えた葉書を貰います。「AB/CDE/FGHI/JKLMK/NMJKCDOの雪・・・・」意味が解読できないまま卒業。
やがて先輩が亡くなったという知らせに接します。
長い時を経て、ふとしたきっかけで、改めて彼女からの葉書を見返しているうちに、寺脇は暗号の意味したことを知るのでした。”・・・・・・読み解いていたら、あの人はどうなっていたのだろう。・・・・・たまらなく、コーヒーが飲みたかった。”で物語は終わります。
著者北村はインタビューに応えて「ここでは人生の、取返しのつかないことを書こうと思っていました。人生は誤解とか、いろいろあり、そういうものを抱えて人は年をとる。その過酷さを書きたかった」と述べています。『遠い唇』は、私をもそんな思いにさせてくれる作品でした。
最終章の「ビスケット」では珍しく殺人事件が起こり、“ダイイングメッセイジ”が残されていました。源氏香が謎ときの中心となりますが、それは次回ブログで。