マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

中山道を歩く(日本橋→1次板橋宿。10.5Km)

2016年11月08日 | 街道を行く

 第1回の中山道行は4日間とも快晴に恵まれ、昨夜無事帰宅した。
 この4日間で、10次の本庄宿までの89.3Kmを歩く予定にしていたが、9次の深谷宿までの78.3Kmしか歩けなかった。楽しい旅であったが、本人が自覚している以上に足腰が弱くなっていることを実感した旅でもあった。(写真:素晴らしい道案内の書『中山道 浪漫の旅』)






 47時半の定刻前に3人は「日本橋」袂に集合し、定刻に「日本国道路元標」前から出発し、まずは板橋宿を目指し、神田駅へと通じる国道17号線を進んだ。
 『中山道 浪漫の旅』(著:岸本豊 出版:信濃毎日。以下本と略記)の大筋を出発前日までに読んではいたが、特に手作りの地図が素晴らしく、そのコピー版を何度も見ながら歩き進んだ。それによれば日本橋から神田川までは真っすぐの一本道。かつて、中山道を往く旅人は神田川に架かる筋違橋を渡っていたが、現在はその橋は存在せず、万世橋か昌平橋を越えることとなる。“筋違橋跡”の説明版を見る為には、昌平橋を渡らねばならなかったが、コピー版の読み込みが浅く、万世橋を渡ってしまった。(下の地図参照)

 

 この本で知ったことだが、中山道と日光御成道は筋違橋門で交差していて、そこから来る名前が筋違。その様子は広重の『名所江戸百景』の9景”筋違内八ッ小路”に登場し、参勤交代の風景が描かれている。

 








 万世橋から湯島坂を上り切ると本郷台地で神田明神がある。甘酒で名高い天野屋の前から、本には“原形の中山道”と書かれた道があった。江戸時代の中山道が原形を保ち、千代田区と文京区の境である。天野屋先代と本の著者岸本氏が設置した「旧中山道」標は右写真。



 
 (神田明神では原形の中山道を行く)

 
本郷台地は通い慣れた道で、先を急ぐ関係もあり、名所旧跡にはあまり立ち寄らなかったが、岩槻街道と別れる追分で東大農学部構内の”上野博士と忠犬ハチ公”の像に寄った。同行の二人に知識自慢をしたかったこともあったが、出発地点で記念撮影をしなかったので、ここで先生とハチ公を挟んで記念撮影。(写真:同行の左菅原さん、右熊倉さん)
 
高崎屋酒店の前で17号の標識に従い左折。向丘高校の裏手を通ると未だ空き地で、体育館が見渡せ、昔話に話が弾んだ。千石駅付近には”中山道6Km”の表示がある。その手前で妻が待っていてくれてチョコレートなどの差し入れ。


 
巣鴨駅を過ぎると、道は国道17号線と別れ“巣鴨地蔵通り”と名付けられた道を歩んだ。(写真:巣鴨地蔵尊は4の日で、賑わいを見せていた)
 本の
著者は現国道を細い線で描き、”17”と表示し、一方歩むべき“中山道”は一番下の写真のように太い赤線で表示している。その道の多くは地元では“旧中山道”と表示されていた。一口に“中山道”と言っても、中山道は時代とともに変遷を重ね、幾つもの中山道がある。私は中山道を3つに分けて理解することにした。現中山道(17号と略記)・旧中山道(私たちが歩もうとする道)・原形の中山道(1628年頃には廃止された道)の3つである。(地図は本文の一番下に掲示)


 旧中山道は巣鴨で17号線と別れ、”おばあちゃんの原宿”などを経て、板橋区清水町で合流するまで続く。旧中山道には如何にも旧道といった雰囲気や建物が残り、歩いていて実に楽しい。とげぬき地蔵・千川上水公園・板橋駅・近藤勇の墓・加賀藩下屋敷入口などを過ぎると板橋宿。


     
 (板橋の由来は石神井川に架かる板の橋)                   (石神井川)

 
板橋宿の中に上宿・仲宿・平尾宿の3つがあり、旅籠は総計54軒。中心的存在の仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋があり、上宿には木賃宿や馬喰宿が建ち並んでいたそうな。現在でも仲宿が一番賑やかで、人通りも多い。銭湯花の湯・宇喜多秀家供養塔などを過ぎて11時半中華料理店「萬實楼」昼食。ここまで4時間ほど歩いたことになるが、何度か歩いた道だったこともあり、疲れを感じることもなく板橋宿に到着したのだった。(写真:仲宿の入口)



  
   (本陣跡の碑)       
  
  (花の湯の正面上は”花の湯”と刻まれている)   (旧中山道が17号を横切る図)


 (『浪漫の旅』より。赤線が旧中山道。17号線は細い線で描かれてる)