マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

中山道を歩く(浦和宿→大宮宿 5.9Km)

2016年11月24日 | 街道を行く

 115日(土)、朝9時に浦和駅に集合。中山道行の2日目、この日も好天に恵まれた。
 大学時代、浦和⇔北浦和間は、中山道に平行する裏道を毎週の様に歩いていた。教員免許を取得するためには「数学科教育法」などを受講しなくてはならず、在籍した文理学部の校舎と、開講される教育学部浦和校舎間を往復したのだ。新制大学は旧制浦和高校と旧制埼玉師範から成り立ち、“タコ足大学”などと呼ばれていた。 
 浦和の繁華街を抜けると京浜東北線などと立体交差する跨線橋が見えて来た。通学時、北浦和駅下車の際によく見た橋だ。その橋の手前で中山道は与野道と分離する。『浪漫の旅』を熟読すると、この与野道の前には「バンカラ像」が建ち、旧制浦和高校正門があった!この本を読むまでは、我が大学前を通っていた道は中山道と信じていたが、その道は与野道だった。私に小さな衝撃が走った。50年間以上も続く勘違い。良く見かけた跨線橋付近の道こそ中山道の街道筋だった。

 
暫く進むと「六国見(ろっこくみ)」の標識。
 
「中山道は、東海道・日光街道・甲州街道・奥州街道と並ぶ五街道の一つです。中山道と赤山街道が交差するこの辺りには立場茶屋があり、文化2年(1805年)刊の『木曽路名所図会』には<富士・浅間・甲斐・武蔵・下野・上州伊香保などあざやかに見えたり>とあり、関東六国の山々を見渡せる見晴らしのよい名所として知られ「六国見」と呼ばれていました」とあった。




 残念ながら山々は見渡せなかったが、旅を終え暫くして『天保国絵図で辿る 広重・英泉の木曽街道六十九次旅景色』を観た。浦和宿の項は英泉画。
 『六十九次旅景色』浦和宿には次の文章が添えられていた「空晴れたるときは、ここよりも浅間山見ゆる。宿場の画材として英泉も、無難に噴煙を吹き上げる浅間山を取り上げている」と。
 絵に見える土橋は浦和宿にはないので、英泉は目沼代用水の高台に移動して浅間山を描いたのであろうとの推察が続く。 『六十九次旅景色』は最初は英泉が24点を、替わった広重が47点を描いた。そこに登場する山では浅間山が一番多く描かれていたが、最初の一幅が右の”浦和宿 浅間山遠望”である。

 黄葉にはまだ早かったが、昭和初期に植えられた、見事なケヤキの並木は今に残り、並木に導かれるように旧中山道とは分岐して、初期中山道を進んでいった。初期中山道こそ、全長2Kmもの氷川神社への参道。大学時代にもこの参道を歩いたが、こんなにも長い参道であったとは!今回の旅の3大驚きの一つ。両側のケヤキ並木が見事で美しい。
 この近辺では国道17号線・旧中山道・初期中山道の3本の道筋がはしっている。1628年に大宮の氷川神社参道の西側に新たに大宮宿が作られ、中山道は付替えられた。利根川東遷に関わった、関東郡代伊奈忠次による付替え工事で、参勤交代が制度化される7年前のことだ。
 今回の旅では氷川神社には寄らず、ケヤキ並木を歩き、本陣碑を見ただけで先を急いだ。(写真:右が一の鳥居。下はケヤキ並木)

  

  浦和宿付近の地図

 大宮宿付近の地図

 




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