マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

中山道を歩く(板橋宿→蕨宿 8.4Km)

2016年11月12日 | 街道を行く

 板橋宿碑が板橋宿の端を示していた。そこを過ぎると直ぐに「縁切榎跡」。立て札にはおおよそ次の様に書かれていた。「・・・旗本近藤登之助の抱屋敷には榎の古木があり、いつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになり、嫁入りの際にはその下を通らなかった。板橋宿名主の古文書には、1681(文久元)年の和宮下向の際には1Kmの迂回路が作られた。・・・」と。
 そ
の迂回路を確認することなく通り過ぎてしまったが、『浪漫の旅』によれば、迂回路は縁切榎から日曜寺の前を通り清水種苗店前へと通じていた、とある。私は帰宅後に『江戸重ね地図』で調べた。下の写真がそれで、

 京都方面から日本橋に向かうとして、A(入口。現清水種苗店前)→BCD→日曜寺→E(出口。現板橋宿碑)を迂回路と想定した(A⇔Eの、ほぼ直線が旧中山道)。『重ね地図』の現在版でもその道が示された。


     








 その入口に残るのが「清水種苗店」。明治に入ると巣鴨からここ清水まで27軒もの種物屋があり、「タネ屋街道」とも呼ばれたらしいが、現在は「清水種苗店」のみが名残を留めている。その種苗店を過ぎると道は17号線と合流する。交通量が多く余り感趣の湧かない通りだが、この通り沿いに「志村一里塚」があった。(写真:清水種苗店の建物)






 日本橋から一里毎に設けられた一里塚で、ここは3番目。都内に残る一里塚は、ここと「西ヶ原一里塚」のみ。かって城北高校勤務のころ、帰宅の際に同僚の大竹さんとその傍にあるラーメン店で、ここの謂れなど何も知らずに、一杯ひっかけたことを懐かしく思いながら通過する。(写真:志村一里塚)







 志村坂上駅を過ぎると17号線と別れ、交番横の右手の細い道を入っていった。暫く歩み行くと道は武蔵野台地を下り始めるが、清水坂上には「右富士標識」があった。普通、北へと向かう旅人は富士山を西側すなわち左手に見たはずだが、この清水坂上からは右手に富士を望んだ。それ故の「右手富士」。この坂道が気に入った。急な坂故にS字型に曲っていた。



 暫くして新河岸川を渡る。その下流では岩淵水門からの荒川水流を併せて隅田川となる。ここでは川幅は狭いが、水量豊かな流れ。かって、川越藩主松平信綱は改修工事を実施し、江戸と川越を結んだ運河は舟運ルートだった過去を持つ。舟旅も可能だったそうな。(写真:新河岸川)







 
更に進むと荒川だ。車で越えれば何ということは無いが、徒歩では一苦労。その川幅の長さを思い知らされる。全長519mの戸田橋を渡ると埼玉県。蕨宿には14時半の到着。今回訪れた宿の中では一番保存度が良かった。(写真:戸田橋に掛かる絵。かってこの辺りを舟で渡った)




       (街道を往く二人)