マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

史跡めぐり「文京区海岸物語」に参加して(その2)

2016年11月22日 | 東京散歩

 このイベント参加者50名のうち私が属した2班は12名構成で、その班のガイド役を務めてくれたのは、ふるさと歴史館の「街歩きガイド」関谷弘子さん。御年は私と同い年くらいか。彼女を先頭に最初の目的地南谷寺(目赤不動)へ向かったのだが、その歩みは軽やかで速く、説明も分かりやすく丁寧だった。動坂遺跡へ向かう前に、南谷寺と徳源院に立ち寄った理由も明らかになって来た。道すがらではなく、敢えてこの二つのお寺は選ばれたのだった。(写真:最初に訪れた南谷寺)



 南谷寺。別名目赤不動と呼ばれている。
 元和年間、万行和尚は下駒込の地(東京都立駒込病院前)に庵を結び、不動明王像を安置した。創建当時「赤目不動」と呼ばれた寺院の不動明王に対する人々の信仰は篤く、多くの参詣者が訪れた。この不動堂の前の坂道は「不動坂」と呼ばれたが、現在は「動坂」と呼ばれている。(南谷寺=目赤不動に安置されている不動明王)

 赤目不動は、寛永年間に鷹狩に訪れた三代将軍・徳川家光の目にとまり、現在の地(本駒込1丁目)に地を与えられて移り、「南谷寺」の寺号を与えられた。その際「赤目不動」と呼ばれていた名を「目赤不動」改称することとなった。赤目不動は不動明王を移されたが、お堂は旧地に残った。
 時を経てお堂下から土器が発見された。


 南谷寺の境内には『赤目不動と呼ばれたお堂を1893(明治26)年に修理中、地下から土器・石器が出土した。人類学者坪井正五郎はその遺物を鑑定し、コロボックル人の使用した土器・石材(打製石器)と鑑定した』旨の碑が建てられている。それ故、まずは南谷寺を訪れたのだ。徳源院にも「太古の碑」として同じ内容の碑が建てられていた。(右写真:目赤不動内の碑)

                   
(碑には”コロボックル”の文字が)          (徳源院には”太古の遺跡”が)

 1974(昭和49)年に動坂遺跡が発見される81年も前に、土器が発見されていたのだ。
 動坂遺跡に回った際に、ガイド関谷さんは、道路隔てた、駒込病院前のお店を指さして「あそこに赤目不動尊はありました」と説明した。明治の遺跡と昭和の動坂遺跡とは繋がっていた。同種の遺跡と推定してよいのではと私も思う。私には新たな発見だった。
 その後、天祖神社・富士神社を見学し、小石川植物園に到着したがが、この二つ神社については何度もブログに登場させたので省略しよう。

 それよりも気になるのは坪井博士が唱えたコロボックル人種説だ。明治時代に書かれた碑に“コロボックル”の文字が刻まれていることは驚きだが、『つくられた縄文時代』(新潮選書)で、著者山田康弘は、「私たち日本人とは何者なのか」という、いわゆる「日本人種論」を語るなかで「コロボックル人」に触れ、概略次の様に紹介している。
 (1)シーボルト(フォン・シーボルトの次男)と同様「石器時代人=アイヌ人」説を唱えたジョン・ミルンは、北海道においては、コロボックル→アイヌ→日本人という人種交代を想定していた。コロボックルは実在の民族で、北方から来た人々と考えていた。(1881年の著作)
 (2)現在においては、コロボックルは石器時代に実在した民族ではなく、コロボックルはアイヌ語で「蕗の葉の下の人」という意味で、あくまでもアイヌの伝説上の人々であったと解釈されている。
 (私にとってはコロボックルは霧ヶ峰付近の山小屋の印象が強烈である。母の実家の檀家寺徳源院にこの様な碑が建てられていたことも驚きだった)