マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「・・末の松山波越さじとは」 

2018年06月27日 | 地学・天文

 6月23日(日)、本駒込活動センターで、深田研ジオフォーラムの講演報告を、妻から、トモさんと私の二人で受けた。報告レポートは、A4用紙で本文が63枚、質問集が55枚の合計118枚(236ページ)と膨大なもので、報告時間は2時間半に及んだ。
 過去に起こった大津波が古文書や口承伝説と併せて紹介された。北海道胆振(いぶり)・日高地方、島根県江津市、和歌山県御坊市、高知県土佐市、琉球・八重山群島などの日本列島だけでなく、台湾などの外国での津波も紹介された。分けても、西インド洋に落下した隕石による、マダガスカル島とソコトラ島を襲った超巨大津波は500mもの高さがあったとの話にはびっくりした。
 最後には津波の危険に鈍感な地方自治体が幾つも紹介され、都司探偵は「責任者 でてこーい」と大きな怒りを表していた。これらの話題は大きな興味を引く。私自身でも調べ、まとめた上でブログに記したい。
 今日は貞観地震と百人一首「末の松山」の和歌の謎について。
 まずは思い出から。
 高校時代、「百人一首かるた」ゲームが私の周りで流行っていた。中学時代の友人の深谷君のお宅でやったことはよく覚えている。家族でやったこともあった。読まれた上の句を聞いて直ぐに手が動く為には、百人一首を覚えておいた方が有利この上ない。というか、子ども遊びとしても和歌を覚えておかなければ戦いにならない。そこで友人たちは和歌を覚え始めた。私は百首全部を丸暗記した。今でも、上の句を聞けば下の句が出て来る歌は50首くらいはある。
 ゲームの勝敗は兎も角、是非取りたい札があった。例えば私は「天つ風・・・」と来たら「をとめの姿しばしとどめん」を取りたかった。「憂かりける・・・」と来たら「はげしかれとは祈らんものを」にさっと手が動いた。意味など分からなかったが。
 
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」(清原元輔)。
 この歌も覚えたが気に入った一首ではなかった。今までに何度か聞いて意味もよく分かっているが、都司先生の解釈・妻のアレンジを含め私なり解釈を記そう。
 「固い約束をしたよね。互いに涙で濡らした袖をしぼりながら。あの末の松山を決して波が越えることがないのと同じように、私達の仲も変わらないと約束したのに」。恨みの歌であり、相手をなじる歌だ。そこでは「変わらないもの」「永久不変のもの」の象徴として「末の松山」が使われている。
 
末の松山は宮城県多賀城市八幡「宝国寺」の裏山である。現在では海岸から1.5Kmの地点に位置している。津波が来たならば波は当然ここを越えて行くはずの地点。しかし何度かの津波にも拘わらず末の松山を波は越えたことは無かった。周囲は全部浸水したのに、末の松山だけは浸水しなかった。
 貞観地震でも3・11大地震でも越えなかった。その両地震は
同規模の地震であり津波だそうだ。「三代実録」による死者1,000人は、当時の人口700万人に比すると、被害者の数も2011年と同規模という。2011年の大津波でもここは越えい映像を何度も見た。(写真:赤い地域が浸水となった)
 歌の作者は清原元輔(清少納言の父。908年~990年)。貞観地震(869年)は彼の生まれる39年前のこと。一地方の末の松山の事柄が都にまで伝えられたということは、貞観地震の規模があまりに大きく、遠く離れた都にも大きな衝撃を以て伝えられ、和歌の世界にまで入って来たのだろう。 
 そこから都司探偵は「末の松山」を単に「波越さじ」の場所としてだけでなく、もう一歩進んで、古代の津波避難指定場所!と推定した。神社が高い場所に建てられたのも、過去の津波被害から学んだことの一つと推測した。

 明後日から帯広に出掛けるたるため、ブログ更新は7月3日以降になります。

  


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