マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「明応の東海地震」を知って

2017年08月14日 | 地学・天文

 1498(明応7)825日に、マグニチュード8.28.4と推定される“明応の東海地震”が起こった。日本中世最大級の地震であったと考えられている。
 この情報は妻から聞いた。妻は「源氏の会」で『更級日記』を解説するため、作者菅原孝標女が京へ帰京する際に利用した中世の東海道を調べる過程で『中世の東海道をゆく』(著:榎原雅治 中公新書)に出合った。その本が私に回って来たのだ。
 本書の著者は、東大史料編纂所々長だった歴史学者で、内容は鎌倉時代の貴族飛鳥井雅有一行が京都を出発し鎌倉を目指した旅の様子を記した、旅日記『春の深山路』を題材にして、中世の東海道を解説したものである。
 その第3章「湖畔にて・・・橋本・・・」の“浜名の風景”の中で、初めて明応の東海地震が登場してくる。
 
《現在でも浜名湖は東海道有数の景勝の地であるが、十五世紀末より前の浜名湖は今とは異なる形をしていた。そしてその形はある日突然に変わった。明応7年(1498)8月25日辰の刻(7時~9)に御前崎沖で発生した地震が本州中部の広い範囲で起こった。大きな震動に遭遇した京都の公家は「生まれて以来、このようなことは経験がない」(『実隆公記』八月二十五日条)と記し、ひと月ののち、別の公家は伊勢・三河・駿河・伊豆に大波が押し寄せ、海辺二、三十町の民家がことごとく流されてしまい、人命も牛馬も数知れず失われたとの情報を耳にしている(『後法興院記』九月二十五日条)。推定される地震規模はマグニチュード8.28.4で、日本中世最大級の地震であったと考えられる》と記している。
 公の文章にこの地震の記録はないようだが、何人もの公家の日記にこの地震のことが記され、大きな地震の起こったことは歴史的事実と考えて間違いない。

 
問題はその規模と影響だが、著者は3つの事実を挙げている。(右は明応地震以前の浜名湖南部の地図に東海道新幹線など現在の要素を書き加えたもの)
 
(1)   現在、浜名湖に向かって西から流れ込んでいる浜名川は、地震以前には、逆に浜名湖から遠州灘に向って西へ流れていた。要するに、川の流れは逆転した。
 
(2)   東海道のなかでも有数の橋本宿は消滅し、住民は寺社とともに新居地域に移住した。
 
(3)   浜名湖と遠州灘は繋がっていなかったが、この地震により、今切(いまぎり)という湖口が出現し、湖は海と繋がった。
 
(地震によって浜名湖は1メートルほど沈降し、満潮時には海水が遡上し汽水湖となった。との通説もある)
 
更には『皇代記』に驚くべき記述がある。(文章は現代語訳)
 
《高潮は地震によって満ちて来た。そして引いたときにはとんでもないものだった。海底の砂が現れ、魚はことごとく死んでいた。はるか彼方まで潮が干上がり、世にもまれな不思議であるので、人々はみなこれを見学していた。ところが突然、高潮が起こり、山のようになって襲って来た。干潟に出ていた者は仰天してみな戻ろうとしたが、大半は途中で死んでしまった》
 津波第二波の襲来に先だって大規模な引潮現象が起こったのだ。
2004年インド洋大津波でも、3・11大震災でも起こったと同じことが、今から519年前の明応の東海地震でも起こり、記録に残されていた。しかし、そのことは語り継がれて来なかった。このような記録の収集と啓蒙こそが、地震・津波大国日本の政府など公の機関の大きな役割のはずだ。


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