マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『江戸上水基礎講座』(第1回 江戸上水の誕生)に通い始める

2019年04月28日 | 江戸の川・東京の川

 東京都水道歴史館の今年度の特別講座『江戸上水基礎講座』が4月27日(土)から始まり、聴講してきた。
 江戸時代の上水に関する基礎的な知識を学ぶ、各回1時間の講座。江戸上水の誕生から、玉川上水の開削、近代上水が誕生するまでの歴史をふり返るとともに、その構造や運営・管理まで、さまざまな視点から学ぶ、2ヶ月に1度、
全6回の講座だ。江戸上水については断片的な知識しか持ち合わせない私には絶好の機会と考え通い始めた。

 水道歴史館には何度も訪れていたが、3階へは初めてだったか。3階のレクチャーホールは100人は収容可能な中ホールで、ほぼ満席の盛況。高齢の男性が多数を占めていた。担当の学芸員金子氏は「こんなに参加の方が多いとは想像していませんで、あがっています」と挨拶。講座はパワポイントを使用して開始された。


 今回のテーマは「江戸上水の誕生」。以下学芸員の説明を、私の感想を僅かに交えながらまとめる。
 (1)近世都市「江戸」の上水
 家康の入府1590年当時の江戸は一面の葦原だった。家康は江戸城を整備するにあたり、城の東側の低地を埋め立てて、街の基盤を造ることから始めた。飲料水の確保が重要なテーマの一つで、海に近い埋め立て地から、塩分が含まれるなど上質な水が得られないため、かなり早い段階で上水道(「上水」)が引かれた。
 最初に開削されたのが「神田上水」と思われがちだが、それ以前に上水があったとの記録が『天正日記』にある。家康入府直前の天正18年7月に家臣大久保藤五郎(のち主水)に「江戸上水」の指示がなされ、10月に小石川あたりの「引水」がある程度整ったとされる水道は俗に「小石川上水」と呼ばれている。しかし『天正日記』は信じられない部分がある。怪しいとの記録であることは間違いなという印象です、と金子氏は語った。

 (2)「小石川上水」と「溜池上水」
 『天正日記』の記載が怪しいとしても、17世紀初頭には江戸の北東部と南西部に上水が誕生したことは確かなようで、『慶長見聞録』には「神田明神山岸の水を北東の町に、「山王山本の流れ」を西南の町に供給したことが述べてられいる。一般にはこれらが江戸の初期上水と考えられており、前者は神田明神のあった駿河台縁辺を水源とする「小石川上水」で、後者は山王社の側にある溜池を水源とする「溜池上水」と呼ばれている。

 この後「神田上水の成立」に話が及んだが、第2回のテーマが「神田上水」なので、この話は第2回にまとめる。
 (3)「溜池上水」の存在
 江戸の南西部は、1654(承応3)年に玉川上水が完成した後はその配水域となるが、その以前からこの地域に水道(=上水)が存在したらしいことが、幾つかの資料からうかがえる。国立歴史民俗博物館所蔵の『江戸図屏風』には御成橋から新橋方向に向かって掛樋が渡っている様子が描かれ、これは構造からみて上水の可能性がある。(写真は国立図書館所蔵『武州豊嶋郡江戸荘図』のデジタル版より)
 『武州豊嶋郡江戸庄図』には、溜池のところに”ためいけ 江戸すいとうのみなかみ”という注記がみられる。
 これらの資料から、江戸時代に現在の地下鉄溜池山王駅付近にあった「溜池」を水源とする上水の存在が推測される。溜池を水源とすることから「溜池上水」と呼ばれている。
 東京駅八重洲北口で玉川上水遺構を調査した時に、その下側に玉川上水開削以前に存在した石組の水路が発見され「溜池上水」かと推測している。この調査を私が担当しましたと金子氏が語ったときには笑いと軽い拍手が起こった。

 今後に大いに期待の持てる講座の初回であった。

 今日の二葉。ベランダの鉢に咲くブルーベリーの花
 
 
 
 
 
 
 

 


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