マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『清冽 詩人茨木のり子の肖像』を読む(その1)

2010年12月13日 | 読書

 現代詩人の一人茨木のり子が亡くなってから早や4年が経ちました。「清冽」は”詩人茨木のり子の肖像”との副題のもと、この詩人の初の本格的評伝です。著者はノンフィクション作家後藤正治。徹底した取材を通して作品を仕上げる後藤正治の作品と知り、期待感大きく作品を読み始めました。作品は茨木のり子の生涯とその詩の本質を尋ねる物語で、見事な出来栄えの作品に仕上がっています。最近読んだ本の中でも秀逸なノンフィクション作品です。



 取材は、彼女の詩集の出版に係った編集者・同人誌「櫂」の仲間・医者だった実家「宮崎医院」で働いていたお手伝いさん・甥をはじめとする親戚の人々・親交深かった友などに及びます。NHKアナウンサー山根基世もその一人です。これらの取材を通して、彼女の人となりを浮かび上がらせます。多くの優れたノンフィクションがそうであるように、その取材結果をただ平板に時系列に沿って並べるのではなく、立体的に再構築して彼女の生涯を語ります。
 彼女を規定している要素なかでの真っ先に取り上げたのが、その思春期、戦争に身も心も侵した戦中世代であったという点。その歳月への思いは、数年のときを経て、第一詩集『対話』に登場する「根府川」や第二詩集『見えない配達夫』の「わたしが一番きれいだったとき」に結実します。
 戦後、結婚・川崎洋と同人詩「櫂」の創刊・48歳にして夫との死別。ハングルとの出会い・『韓国現代詩選』の刊行等など。
 彼女の生涯を13章に分けて語りながら、その章毎に、その舞台に相応しい詩が何篇か散りばめられています。詩の本質を独白(モノローグ)であるよりも、対話(ダイアローグ)であることを特徴とした、と見なします。問いのベクトルは第一に自身に向けられ、それが結果として読者に<わがことのように>伝播する作用を果たす、と著者は語ります。
 少し分かりにくい部分のある説明ですが、
 「自分の感受性くらい」の詩を通して、私なりに理解しました。
     
    
ばさばさに乾いてゆく心を
     ひとのせいにはするな
     みずから水やりを怠っておいて
 
     気難かしくなってきたのを
     友人のせいにはするな
     しなやかさを失ったのはどちらなのか

     苛立つのを
     近親のせいにはするな
     なにもかも下手だったのはわたくし

     初心消えかかるのを
     暮らしのせいにはするな
     そもそもが ひよわな志にすぎなかった

     駄目なことの一切を
     時代のせいにはするな
     わずかに光る尊厳の放棄

     自分の感受性くらい
     自分で守れ
     ばかものよ
    
 最終連にある「ばかものよ」という言葉は勿論作者
自身に向かって投げかけられているのですが、この詩を読んだ者は、これを自分の問題として捉えることになり、<わがことのように>受け止めるがゆえに、結果論として対話となると、私は理解したのです。
 更に付け加えれば、茨木のり子の詩は非常に分かりやすい点に最大の特徴があると私には思えます。
(次回ブログに続く)
 
 


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