マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

銅御殿(あかがねごてん その3)

2011年11月19日 | 東京散歩

 銅御殿の当主は磯野敬、中野貫一、大谷哲平と巡って、哲平の息子大谷利勝に引き継がれ、現在は「大谷美術館」の所有です。この建物建築の棟梁北見米造に触れる前に、「大谷邸写真集」などにより、当主となった三人を点描しておきます。
 初代当主磯野敬(その名から旧磯野邸とも呼ばれています)は明治元年、千葉県夷隅郡の生まれ。慶応義塾理財科第3回の卒業で、福沢諭吉の弟子の一人。山林育成に熱意を持ち、国内はもとより台湾・朝鮮等にも山林を有し「山林王」と呼ばれました。大正14年、小石川で没。
 中野貫一は弘化3年(1846年)、新潟県の生まれ。幾多の挫折を乗り越え、明治36年に初めて商業規模の油田を掘り当て、後日本の「石油王」と呼ばれる。関東大震災にも倒れなかった家を探し求めるうちに、当家屋を見つけ出した。昭和3年に83歳で没。
 大谷哲平は明治40年富山県の農家の生まれ。ホテルニューオータニの創業者故大谷米太郎氏を父に持ち、若くして大谷重工業株式会社を設立した実業家。平成12年没。

 「銅御殿 大谷邸写真集」と言う非売品の写真集があります。その序文を書いた、博物館明治村館長だった関野克があとがきで「銅御殿の説明」なる一文を寄せ、初代当主磯野敬と棟梁北見米造の関係に触れています。
 『・・・。棟梁は明治16年の生まれで、大工の修業を終えた21歳の時磯野翁の目に適って、後に銅御殿と称された磯野家の私邸の造営に従う。この工事に要する予算と期限に条件を付されることなく、(中略)しかも北見棟梁は只の大工ではなかった』そうで、働きつつ工業高校に進学。そこでは木工技術や木削と規矩及近代建築の講義と実習がなされ、彼はその夜間部を卒業したそうです。その工業高校は現在の都立蔵前工業高校です。
 それにしても大工の修業を終えたばかりの弱冠21歳の若者に建築の全権を任せるとは驚きです。この文章の後半に『棟梁は若い時から茶室建築に関心を持って二、三作っていたし、戦後は茶の師匠になってその普及に尽瘁した』ともありますから、棟梁の作った茶室が翁の目に入ったことでもあったのかと想像するばかりです。

 棟梁は昭和39年没。編集子は亡くなる3年前に棟梁を訪ねて当時の様子を伺い、「思い出の銅御殿」と題する一文を寄せてもらいました。その中で棟梁は次の様に文章の最後を綴っています。
 『大工が名人なら、建具屋、植木職人も名人。当時の名人が集まり、多い時で100人からの職人を使って建てたこのお宅は、一つでも技術的に立派でないものはないと自負しています。今でも少しの狂いもないこのお宅は、50年経てば文化財に、100年経てば必ずや国宝になる建物と信じております』と。文化財の予言は当たりました。
 明治37年、21歳で銅御殿の建築に従事し始めた北見米造。明治15年、時の京都府知事北垣国道から、22歳にして琵琶湖疏水事業の依頼を受けた田辺朔郎。若者が、かくも若くして大活躍出来た時代がありました。

 
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。