マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

江戸城外堀跡を歩く(その4)

2022年07月29日 | 東京散歩

 7月21日(木)、江戸城外堀跡を牛込御門から虎ノ門まで歩いてきた。前回までは高石垣で守られた堀跡を雉子橋から虎ノ門まで“時計回り”に歩いてきたが、今回は谷を利用した土手による深くて広い堀を見ながら“反時計回り”に散策してきた。
 牛込濠から新見附濠、市ヶ谷濠へと続く濠は緑色した水面が美しい。更に真田濠へと進むにつれて標高は上がっていくが真田濠は完全に埋められていた。喰違土手からは下りとなり、弁慶濠を経て赤坂門へ。溜池だった赤坂門から虎ノ門までには濠の面影は見いだせなかった。(写真下はガイドブックより)

 

 21日は大江戸線を飯田橋駅で下車し、地下道を10分ほど歩いてB3出口から地上に出るとそこは神楽坂下だった。現在は早稲田通りだがかつての上州道。そのまま真っすぐ江戸城に向かって進めば内堀に面した田安門。左手にJR飯田橋駅を、右手に牛込濠を見ながら牛込橋を渡ると牛込見付けで、道の両側に石垣が見られる。




 寛永13年(1636)に徳島藩主蜂須賀忠英により桝形石垣が造られ、明治35年(1902)に門の一部が撤去されたが、外堀のなかでは良く石垣が残されている箇所だ。石垣の脇には蜂須賀家を示す「🔲阿波守内」と記された石垣石も残されている。(写真右は阿波守内と書かれた石垣石。下はかつての牛込見附門)



 ここから土塁に上がると、牛込濠が良く見える。何度も歩いたコースで見晴しの良い散歩道。土塁の下には中央線や総武線が往来している。千代田区側の土塁から対岸の牛込台を望むと、広い谷地形が形成されていることが実に良く分かる。堀は神田川の支流たる紅葉谷を利用して築かれたそうだ。(写真下は牛込濠脇を走る総武線)




 

 牛込門と市ヶ谷門の間に1929年建造された新見附橋がある、ここから市ヶ谷までの堀は新見附堀と呼ばれていて、両濠に水面差はない。(新見附橋下を走る総武線。下は新見附濠)








 

 市ヶ谷門は津山藩森長継により桝形石垣が造られたが、門は明治5年に撤廃され、大正2年に石垣は全て撤去されたが、橋台石垣(写真右)は良好に残されていた。






 市ヶ谷門から四谷門へは外堀通り側に降りて、外堀の外周を歩いた。この間はかなりの急な上りである。かつての東京女子マラソンのなどをテレビ観戦していると、「ここは急こう配でランナーを苦しめています」と語られていたあの箇所である。こちらから見ると市ヶ谷堀はすぐ目の前に見える。土手側との高低差は10mはあるだろうか。(写真右は市ヶ谷濠。下は『江戸見附写真帖』による明治初年の市ヶ谷門)

 

 四谷門は萩藩々主毛利秀就により桝形石垣が造られたが、明治5年に撤廃されてしまった。四谷門から喰違土手の間を初めて歩いた。
 高く盛られた土手からは遥か眼下に真田濠跡が眺められた。多くの労力を要しただろうことが容易に想像出来た。猛暑の日ではあったが、森林浴に楽しみながらの散策は気分爽快だった。(以下次回へ) 
 
  
 
 
 


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