マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

本郷台地の東端を歩く(東大浅野キャンパス その1)

2020年01月27日 | 東京散歩

 「弥生二丁目遺跡」を捜しに出掛けた東大浅野キャンパスは不思議な空間だった。正門の壁には弥生式の土器の像などが貼られ、妙な形をした建物もあった(右写真)。そこで「遺跡」に辿り着いた後にも2度3度と浅野キャンパスに出掛けている。“浅野”の由来なども調べてみた。(キャンパスの地図は最下段に2枚掲示)


 キャンパスへのアプローチは本郷通りからだと、農学部を過ぎてから言問い通りへと左折し、暗闇坂への道は通り越し、「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑のある地点を右折すると、漸くキャンパス正門(右写真)に辿り着く。途中の塀には地名の由来などが書かれていて、それらを整理すると、

 この辺り一帯は江戸時代は水戸藩の中屋敷で、屋敷内には9代藩主斉昭が建てた歌碑があり、向ヶ岡弥生の地名はそこから来ていた。即ち「文政十余り一とせという年のやよいの十日
 名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐいなき花の影かな」と刻まれていた。明治になり町屋が作られた折、この歌碑から町名は「向ヶ岡弥生」と名付けられた。「東京江戸重ね地図」で調べると、水戸藩中屋敷は現在ではそっくりそのまま弥生1丁目と2丁目となっている。
 又、安芸広島藩最後の藩主浅野長勲は明治22年に「本郷区向ヶ丘弥生町」に土地を取得し、浅野侯爵邸と呼ばれる屋敷を建てた。その屋敷の大部分が大学の敷地になったことに由来して浅野キャンパスの名が付けられた。2丁目は1番地から11番地までしか存在しないが、広大な浅野キャンパスは11番地のみに存在していて、ここには工学部と理学部があり、武田先端知ビルやアイソトープ総合センターなどもある。(写真:正門に貼られていた弥生式土器の写真)
 平成13(2001)年にはキャンパス内から弥生時代の墓2基などが発見・発掘されていた。それは次回に。

 

 

 
 
 

 


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