崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

日中戦争体験者の話

2011年11月09日 06時42分13秒 | エッセイ
日本文化論の講義にルースベネディクトの「戦争中の日本人」について触れ、「人間魚雷回天」を見せた。その次の時間に本山大智君が下関市豊北町に在住している、日中戦争体験者の97歳の小山正夫氏インタビュー調査したことに関することを映像で発表した。貴重な話であり、本山君に続けて調査を頼んだ。小山氏はノートと写真などを以て戦争体験談を語る。以下抜録である。
 
 昭和12年8月25日に召集がかかり、8月28日に小倉に入隊し9月18日に門司港を出港し、釜山、北京に、そして杭州に至る。主な任務は、線路の敷設や鉄道による物資の輸送や列車の護衛であった。現地の中国人を使った。機関車を進めて行くうちに前線を拡大し、目的地の徳州まで運んだ。そこで出征した人と出会った。また濟南に向かい、そこから逆行して北京へ。戦闘は万里長城付近で行われ、そこの山岳戦で多くの日本兵が亡くなった。そこから、太源、洛陽と移動し、運城へと向かった。中国兵に向けて常に発砲していなければならなかった。その後、今度は徐州戦、上海から上陸した部隊と一緒に戦闘。
 その後、山西省に移動し梅庄鎮で、今度は中国共産党の軍隊と戦闘をすることになった。
 私の足の手術の時、麻酔がないため足を板に縛り付けて軍医がメスを入れた。
 その後は南京戦に参加し、南京では、ある女性と親しくなり、その女性の実家から呼んでもらい、一晩過ごしたことがある。もう少し長くいたら結婚していたかもしれない。とても、優しい人だった。その他にも中国人の友人が何人かいた。その人たちは、とても日本に来たがっていた。水確保のため移動先で井戸を掘った。
 昭和15年の4月に杭州湾から出港し30日後に広島に上陸した。昭和20年には再度招集がかかり今度は福岡県宗像へと招集された。そこでは、戦車の下に爆弾を抱えて潜り込み戦車ごと爆破する訓練を繰り返ししていた。そこで分隊長として務め終戦を迎える事になる。終戦の玉音放送を聞いた時は全員「万歳」を三唱した。私には、悲しい思いよりもむしろやっと解放されたという思いだった。