崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「吉田清治の長男、衝撃の告白」

2016年12月30日 06時37分54秒 | 日記

 昨日今年最後の読書会は安倍総理のハワイでの演説のような、メモを以て話すことと日常的な話とはどう異なるかを社会言語学的に検討した。宮さんとの原書読書、欧米のニュークリティズムNew Criticism、ロシアの形式主義者Formalistsに触れた。たとえば詩poetryの言葉は日常の言葉にたいする組織的に暴力化された言葉(ogarnized violence, deautomatic...)という。文学の言葉と日常の生の言葉とは異なる。レビーストロース、ヤコップソン、チョムスキーなどの理論の主要なポイントに再び感動した。生の日常の話が形式化され、記録され、また口演されるのが今の現状である。それはメディアによって虚説、歪曲されているものもあると思われる。今新しいプロパガンダ的メディアによる社会が洗脳されている。記者の記事文の書き方は読む時注意すべきである。ニュースを伝える記事が評論的になっているものも多い。「……と言った」というべきものが「……と非難した」などのコメント類記事である。映像メディアは繰り返しによりインプットさせることである。
 釜山市東区の日本総領事館前で28日市民団体が一時、少女像を設置したが同市東区職員や警察が撤去し、市民団体メンバーに反発を受けているとのこと。「屈辱的な慰安婦合意に反対する」「平和の少女像を設置し、日本の戦争犯罪を記憶する」と主張した。メンバーの一人の礒永氏が『新潮45』にジャーナリスト大高未貴氏の吉田清治の長男、衝撃の告白の掲載号を貸してくれた。その慰安婦問題の嘘の発祥地は下関であるように下関が頻繁に現われる。嘘のパーワーは大きい。まだ嘘と思っていない人、国も多い。大高氏の文を読んで嘘か、事実かがより分かりにくくなった。それは日常的な話に近いからである。文学の言葉ではないからだといえる。