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書評『ポストモダン状況論』石塚省二著(礫川発行 柘植書房新社発売 2014)
2014-08-12 / 本
『ポストモダン状況論―現代社会(2008.9.15 リーマンショック・2011.3.11 福島以降)の基礎理論』 石塚省二著(礫川発行 柘植書房新社発売 2014)
本書は、『近代の原ロゴス批判』全12巻として構想された作品群の7冊目、最新刊にあたる。著者は、惜しくも、この5月に急逝された。享年64。本書では、著者積年の問題意識、「権力・領土・所有の起源」を、マルクスとルカーチに依拠し、理論的に解き明かしている。権力・領土・所有といった近代の概念の無根拠性、言いかえれば、その非原理性を、説得的に展開しているのである。この点が、まず、注目されなければならない。本書は、大きな哲学的問題意識の文脈で言えば、シリーズ名の『近代の原ロゴス批判』に見られるように、問題意識は、ルカーチやハイデッガー、デリダ、ドゥルーズ、フーコーなどと同一の方向性を持っている。近代社会をその根底にある原理(一言でいえば、キリスト教の唯一神)まで遡って批判しようという試みである。多くの場合、日本の哲学者と言われる人々が、「客体化され事物化された精神的能力の販売者である専門的な『大家』」(G・ルカーチ『歴史と階級意識』)となり、「社会的出来事に対してはただ傍観者となる」(『同書』)のに対して、著者はまったく好対照の仕事をしてきた。ルカーチの研究を中心にしつつ、近代社会が合理性を掲げて、周辺に逐いやってきた「感情」を、倫理・道徳の根拠とする「感情の普遍化テーゼ」や「社会的距離化テーゼ」などの理論的展開を、まさに、時代の社会的出来事と格闘しながら、深めてきたのである。その意味で、著者の哲学は、常に実践哲学であったし、実践社会学であった。本書でも、福島原発事故、リーマンショック、68年パリ五月革命、現存社会主義の崩壊といった「近代の終焉」を告げる社会的出来事を深く思索している。その理論的な枠組みは、本書のタイトルにもなっている「ポストモダン状況論」と言われるものである。これは、「モダン状況」(近代への求心力が働いている状況)と「ポストモダン状況」(近代からの遠心力が働いている状況)の二つの状況を射程に収めながら、「高度情報化」と「高度消費化」がもたらした「日常的ポストモダン状況」、世界的学生反乱が引き金になった「知的ポストモダン状況」、現存社会主義の崩壊によって起きた「国際関係的ポストモダン状況」を具体的に展開するものである。さらに、「モダン状況」にも「ポストモダン状況」にも定位せず、両状況として対象化した世界を「近代の終焉」として捉え直し、そこから、哲学的に3つのカテゴリー「欲望」「他者」「自然」を取りだし、学的に展開するものなのである。
もうひとつの本書の隠れた問題意識―しかし、本質的と言っていい―は、「マスチン」批判である。「マスチン」とは何か。ずばり、マスコミのチンドン屋(略して「マスチン」)をやっている学者・評論家のみなさんのことである。言ってみれば、ルカーチの言う「操作」に嬉々として加担している人々を指している。これを著者は、金権主義、権威主義と批判し、そもそも、欲望産業の代理人が「学者」を騙る状況が、自分にポストモダン状況論を考えさせたのだと語っている。
日・英・仏・独など、10カ国語を話し、確認されただけでも、日・英・仏・独・ポーランド語・ロシア語で論文を書き、第一線の国際的な社会学者・哲学者と共同研究をしてきた、才能あふれる著者の知名度が、国内でそう高くないのは、「嫉妬」のなせるわざではないとは言い切れないだろう。
本書評は、先生亡きあとも24周年の実施が決まった『ルカーチの存在論』公開講座に、受講生として参加して8年、東京情報大学の公開講座に講師として毎年呼んでいただいて6年、そこで、まったく自由にしゃべらせていただいた先生への追悼文でもある。最後に、追悼句一句をもって、ご冥福を祈りたい。
天開いて音の消えゐる白雨かな
尾内達也(詩人)
「図書新聞」8月9日発売号(図書新聞第3171号(8月16日付))
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