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Cioranを読む(32)


■旧暦3月5日、木曜日、

(写真)赤い落書きのある道

今日も、終日、仕事。夕食後、ウォーキングを兼ねて、近所のコンビニへ。水はだいぶ出てきた。500mlのペットボトルで。二日続けて、放射性物質が不検出だったので、明日の検査結果を踏まえて、水道水を利用するかどうか決める。と言っても、喫茶店によく入るので、すでにかなり飲んではいるんだが…。

数学に興味があって、高木貞治の評伝を読んでいる。優れた業績を上げた人は、たいてい、若いころから、精神のベースができていて、思索を深められる身体的な条件が整っていることが多い。高木さんにもそれを感じる。我が身を振り返ると、二十代は、精神不安と分裂気質に悩まされて、心のバランスを取るので精一杯だったような気がする。どうにか、整ってきたと感じられたのが、35歳ぐらいだろうか。ま、だから、どうということもなく、心身の条件は、現在のところ、「運命」あるいは「神の介入」であるから、これを引きうけて、自分にできる仕事をしていくしかないのであるが…。



Un silence abrupt au milieu d'une conversation nous ramène soudain à l'essentiel: il nous révèle de quel prix nous devons payer l'invention de la palore. Cioran Aveux et Anathèmes GALLIMARD p.29

会話の途中の突然の沈黙。これがふいにわれわれを核心へ連れて行く。われわれは、言葉を考えるのに、いかに大きな代償を払わなければならないか、という核心へ。

■むしろ、社会的には、沈黙を作りだすのに、どれだけ代償が必要かに、想いを致す。沈黙は、言葉の存在しない虚無なのではない。沈黙という言葉なのである。それは、われわれが「社会」を構成しているからである。





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