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L・Wノート:確実性の問題(11)


■旧暦8月14日、火曜日、

(写真)無題

今日は、朝から、いきなり真夏日。

諸星大二郎のコミック『海神記』を読み始める。間違いなく傑作だが、上下巻にわたる長大な物語を読み進めていくうちに、息苦しさを覚えてくる。それは、古代社会を舞台にした、ある種の「昏さ」が耐えがたいものになってくるからだ。つまり、人間集団が、自然に従属しきってしまい、自然の支配下に置かれ、自然と対話するための唯一のチャンネルが呪術になってくるという現実に、なんとも言えぬ、「昏さ」を感じてしまうからだ。こんなとき、「近代」の明るさ、個人の自由を、切実なものとして、求めた人々の気持ちが、わかる気がする。

ウェブで話を聞いたり、リアルで議論したりするとき、繰り返し現れる思考パターンに、二者択一式図式というものがある。たとえば、資本主義を批判すると、じゃあ、ソ連・中国の社会主義がいいのか、と短絡する。近代を批判すると、じゃあ、階級社会の前近代がいいのかと短絡する。こうした思考は、あらかじめ、図式的に二項が前提されていて、選択肢は、常に二つのうちの一つに落ちるようになっている。この思考パターンは、何かを固定的に絶対化する思考と親和性が高い。思考の固定化という点では、同じだからだ。典型的なのが、ネットウヨクで、この人種は、国家を絶対化する(往々にして、ネットウヨクの場合は、己が幼稚かつ粗暴で、自己が確立できていないが故に、外部の何かを絶対化し、それに凭れかかる。たまたま、それが国家であったり、天皇であったり、日の丸であったりする)。なにかの絶対化は、その裏側に、排他性や差別、殲滅の思想を伴う。これは、たとえば、日本を絶対化することで、それ以外の文明を差別・排他する。もともと、日本文化は、絶対化や固定化の少ない文化だったはずである。でなければ、インド、中国、朝鮮半島、欧米からの借り物を元にオリジナルを作りだしていくことはできなかったはずだからである。

以前にも書いた(「酒と蕎麦」)が、マルクスが『経済学哲学草稿』で行った哲学と経済の相互批判という方法は、思考の固定化、絶対化を回避する上で、今も有効だと思う。思考の固定化・絶対化は、右翼に限らず、感情的になるほど、視野が狭くなり、われわれが陥りがちな罠なのだと思う。前近代で近代を批判し、近代で前近代を批判する。東洋で西欧を批判し、西欧で東洋を批判する。

ただ、現在の資本主義をベースにした「近代」は、強力に地上を席巻し、前近代や東洋の美質が見えにくくなっているのは、確かだと思う。近代化へとメディア(カテゴリー)が変われば、世界のありようも変わる。伝統への回帰が、どこかで、ポストモダンと共鳴するのは、ある意味、当然のことなのかもしれない。




93. Die Sätze, die derstellen, was Moore 》weiß《, sind alle socher Art, daß man sich schwer vorstellen kann, warum Einer das Gegenteil glauben sollte. Z.B. der Satz, daß Moore sein ganzes Leben in geringer Entfernung von der Erde verbracht hat. - Wider kann ich hier von mir selber statt von Moore reden. Was könnte mich dazu bringen, das Gegenteil davon zu glauben? Entweder ein Erinnerung, oder daß es mir gesagt wurde. - Alles, was ich gesehen oder gehört habe, macht mich der Überzeugung, daß kein Mensch sich je weit von der Erde entfernt hat. Nichts spricht in meinem Weltbild für das Ggenteil.    Wittgenstein Über Gewißheit Suhrkamp 1984

ムーアが「知っている」とする、その内容を表現した命題は、ことごとく、その反対命題を信じる「理由」を考えるのが困難な命題である。たとえば、ムーアは生涯を大地からほとんど離れずにすごした、という命題のように。ここでも、わたしは、ムーアのことではなくわたし自身のこととして、語ってよい。わたしに、その反対命題を信じさせるようなものが何かあるだろうか。記憶であろうと、だれかの言葉であろうと。わたしが見聞きしたことはすべて、これまで、大地から遠く離れて生活した人間はいないということを確信させる。わたしの世界像には、その反対命題を信じさせるようなものは含まれていない。

■非常に面白い断章。土曜日に、哲学塾で、観念論の源流になった、プラトン‐アウグスティヌス‐デカルト‐カントの系譜を学んだ。とくに、アウグスティヌスとデカルトは、懐疑という方法で、疑いえないものとして「cogito, ergo sum(我思う、故に我あり)」という命題にたどり着く。ヴィトゲンシュタインを合わせ鏡にすると、観念論の本質的なところがよく見える。

まずはじめに、「cogito, ergo sum(我思う、故に我あり)」という命題から確認すると、日本語訳では、「我」という言葉が二度繰り返されるが、ラテン語に、「我」はない。ラテン語の命題を直訳すると「考える、故に、存在する」である。つまり、「考える」という行為が、存在の根拠になっていると言える。もちろん、考えているのは、わたしであるから、わたしの存在は、考えることで、根拠づけられている。神が、わたし、あるいは存在を根拠づけなくともよいことになるから、当然、無神論の疑いをデカルトは被ることになる。

ここで、問題にしたいのは、二つである。一つは、存在するのは、何か。二つは、このときのアウグスティヌスとデカルトの懐疑の性質とはどういうものか、である。存在するものは、何か。考えるという行為は、内面的で静的なものである。机に座って思索者が、内なる自己と対話しているイメージが浮かんでくる。肉体を持ち、外部の社会関係の中で活動する身体を持った社会的な自己のイメージではなく、僧院の僧侶や孤独な隠者のイメージに近い。

ヴィトゲンシュタインは、「確実性の問題」で、懐疑の条件について、いくつか触れている。

わたしはなぜ、椅子から立ち上がろうとするとき自分にまだ両足があるかどうか確かめようとしないのか。理由はない。そうしないだけのことである。それがすなわち行動である。  「確実性の問題」148

…とにかくわたしは、どこかで信用することを始めなければならぬのではないか。つまりどこかで疑いを遮断して事を始めなければならない。これは許される範囲の軽率さといったものではなく、判断作用そのもののありかたなのだ。   「確実性の問題」150 部分

ヴィトゲンシュタインは、懐疑を遮断する条件に「行動」をあげている。行動、言いかえれば、社会関係が、懐疑を条件づける。デカルトやアウグスティヌスの懐疑論は、隠者と僧侶の懐疑論であり、座ったままで動かない人の懐疑論である。二人の懐疑論は自分はどんな人間かを告白しているにすぎず、根本的な人間認識は誤っていると言えるだろう。

実は、ウィトゲンシュタインの考え方は、マルクス・エンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』(1845-1846)に非常に近い。ただ、ニュアンスが違うのは、ヴィトゲンシュタインも、行動や社会関係の変化に気がついてはいるが、それをテーマ化していない点にある。

もう一つ、触れなければならないのは、「知と信」の問題である。西欧哲学の二大系譜、プラトン‐アウグスティヌス‐デカルト‐カントとアリストテレス‐トマス・アキナス‐ヘーゲル‐マルクスには、重要なテーマとして「知と信」の問題があるが、ヴィトゲンシュタインで、この問題はほぼ決着がついたのではないかとぼくは思っている。前者の考え方は、知と信は連続し、知の前提に神への信がある。魂やイデアが確実に存在するという信仰が前提にあり、知識はそこに根拠を持つ。全体と個別という論点で言えば、全体の存在が前提にある。神が前提されていることとそれはパラレルである。一方、アリストテレスの系譜では、知と信は切れている。神、すなわち全体の認識は、はじめから放棄されている。個別を帰納的に認識してゆくだけである。個別は、認識可能だが、全体の認識は、信仰の問題へと追いやられる。自然科学の母体になったとも言えるだろう。

ヴィトゲンシュタインの考え方は非常に面白い。それは、今日の断章93とも関わって来るが、これ以上は、疑う必要のない確実な命題(複数)が存在する。それをWeltbild(世界像)と言っている。これを信と言い換えていいと思う。あるいはぼくの問題意識に惹きつければ、イデオロギーと呼んで差し支えないと思う。これを不動の真理と見なすことが、疑問と探求の方法を定めている、という。

わたしは、こう言いたい。ムーアは、彼が知っていると主張することを、実は知っているのではない。ただそれはムーアにとって、わたしにとってと同様、ゆるがぬ真理なのである。それを真理と見なすことが、われわれの疑問と探求の方法を定めているのである。   「確実性の問題」151

わたしにとってゆるがぬ真理を表現する命題は、わたしがあからさまに学んだものではない。コマ状の運動をする物体の回転軸を知る場合と同じに、わたしはそれをあとから発見することができる。この軸はほかのものに固定されているから動かないのではない。それを不動とするのはこの軸を中心にした運動そのものである。   「確実性の問題」152

知(真理)と信(イデオロギー)は、ある命題の中で統一的に現れ、それはゆるがぬ真理となってコマの回転軸のように存在している。知識は、コマの運動そのものであり、その運動がコマを静止状態に置いているのだとする。この考え方は、知と信は重なると同時に分かれており、重なる命題を後から発見することで、それが、信=真理だったことに気がつくという実に斬新なものである。ぼくが、興味を持つのは、Weltbild(世界像)、すなわち、イデオロギーは、どの知識の基盤にも存在するということであり、その信仰体系は、断章93を読むとわかるように、時代制約的である、という点である(地上から離れて生活する人間は、今や、宇宙に存在する)。命題あるいは知識の基盤にあるWeltbild(世界像)を発見し、それが、知識にどういう方向性を与えているのか、あるいは、どういう知的帰結をもたらしているのか、を明らかにすることで、知識の政治性を問うことができるのではないか、とぼくは考えている。Weltbild(世界像)と知識の関連性をテーマ化できないかと考えているわけである。もちろん、Weltbild(世界像)は、時代制約的、言いかえれば、社会関係に規定されるので、Weltbild(世界像)の性格は、そういうものとして捉える必要が当然あるだろう。ここからは、Weltbild(世界像)の歴史という発想へ繋がるかもしれない。













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