goo

Sein und Haben




■sein und haben


腰痛でなにもできないので、ことし一年の日誌をチェックしていた。7月7日の記事に興味深いものがあった。ラジオ講座か何かで、ドイツ語のネイティブが話したことだと思う。

Wie groß ist die Wohnung?
住まいの広さはどのくらい?

Das Haus hat etwa 120 qm(quadratmeter).
だいたい120平米だよ

このとき、動詞のhat(原形はhaben(have))に注目したい。なぜ、habenなのか。ネイティブは、こう説明した。自分たちが住む家についての「主体的あるいは主観的な判断」なので、habenを用いると。つまり、発話者とdie Hauseとの主体的な関係が、このhabenには集約されていることになる。つぎの例を見ていただきたい。

これは、おなじ問いかけに、こう答えたときのニュアンス、あるいは文脈の違いを問題にしている。

Das Haus ist etwa 120 qm.
ひろさは、だいたい120平米です。

ist(原形はsein、英語のbe動詞にあたる)を用いると、相手に客観的な情報を伝える動詞の使い方になる(ネイティブ曰く)。たとえば、不動産屋と客の問答。

つまり、sein動詞は、発話者と対象のdie Hauseの関係が、客観的であることを示している。
このhabenとseinの使い方の文脈の違いは、フランス語も英語も同じではないかと思う。

habenはいってみれば、対象との関係が所有・被所有の関係であり、seinは発話者と対象との関係が、客観的・観察的であり、発話者とは関係なく、そこに存在していることを示している。

所有の言葉habenと存在の言葉seinということもできるだろう。

habenは発話者が主体的・積極的に対象のdas Hausと関わり(住みやすくするために補修したり、カーテンを掛け替えたり、家具を入れたりペンキを塗ったり)、その意味では、人間の社会的実践を表している。

seinは発話者が非主体的・客観的に関わり、一見、関わり合いのない対象に関する情報提示に留まるかのような印象がある。だが、このときのdas Hausには、別にオーナーが存在する。seinという言葉は、所有を所有者とは別のひとの視点で言い表したものなのである。発話者が不動産屋だとすれば、das Hausは「商品」という関係になる。

なにが言いたいかというと、habenは発話者による社会的実践の対象であることを示し、seinの場合は、対象に対する社会的実践主体が「隠されている」ということである。その意味では、seinイデオロギーと言えるかもしれない。

対象が人間である場合、Er ist da.(かれはそこにいる)という文は、Erに対して社会的実践を行う主体が、発話者とは別に存在するということになる。

seinとhabenをめぐる問題は、存在が所有に規定されていることを暗示しているだけでなく、存在が、seinとして、客観として、疎外されて現れることも暗示している。






コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 一日一句(1330) 一日一句(1331) »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。