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フランス語になった俳人たち(4)

■旧暦4月18日、火曜日、

(写真)初夏のカップル

今日は早く起きたので、早朝から仕事。自律訓練法、珈琲を淹れながら筋トレ。自律訓練法をやると、また、寝てしまうので困ったもんだ。

グーグルの地図検索を試していたら、ストリートビューにそのままリンクされている。ちなみに、自分の住所を調べてみたら、画像がそっくり出てくる。建物の南側から撮った画像で、建物全体が出てくるわけではないが、視点は360度回転できる。自室がはっきりと映っていたのには驚いた。シーツを干している様子が映っていた。撮影時期は、2008年の夏ごろ。改修工事をしていたので、そのときの看板が写っていたのである。

小沢の辞任をどう考えるべきなのか、よく全貌がまだ見えないが、ぼくが感じたのは、民主主義の社会的基盤が、情報消費社会によって大きく腐食された一つの現れというものだった(そもそも腐食されなかった時期があったのかどうかという問題もあるが、それはまた別)。辞任の圧力は党内外から大きかったと思うが、マスコミの連日の報道が背景にはあるだろう。企業権力を含む権力の提灯持ちという側面は、当然、ひもつきの産業マスコミである以上ついて回るが、それ以上に、ニュース商品の販売競争という側面を見落としてはならないと思う。ニュース商品は、速報性とセンセーショナリティを、価値とする。しかも、ニュースソースはたいての場合、権力である。権力批判を繰り返せば、ニュースソースを失うことになりかねない。マスコミ各社は、同じ土俵で、ニュース商品の販売競争をせざるを得ないはずである。マスコミには、この二つの理由から権力を根源的に批判する能力は原理的にないのだと思う。権力の提供する情報を、速報性とセンセーショナリティを基準にニュース商品として加工するマスコミ産業が、いわば、社会の認識形成を担っている。自分で根源的に考える習慣がなく、その時間もない大多数の人々が、こうした社会認識に感情的に自己同一してしまうのは、自然のなりゆきではないだろうか。民主主義の社会的基盤の形成には、情報消費文化と民主主義の関係を深く考えていくことが必要だと思う。

これに関連すると思うが、俳句も情報消費文化の文学的な表現になっていることにもっと敏感になるべきではないだろうか。その特徴は、軽さと幼稚な自己表出である。軽さは、芭蕉のように人生の苦難を軽く受け止めるという深い笑いの精神を持ったものではなく、広告コピーの軽さである。その軽さで売り出そうとしているのは、poor selfである。メディアにおける「自己の商品化」が自己目的になっている。資本主義は、人間の成熟化を阻む。欲望を拡大再生産するシステムに成熟という概念はないからである。俳句本来の潜在力は、資本主義に拮抗するものを持っていると思う。一見、プロテストとはなんの関係もないように見えながら、優れた俳句は資本主義社会のありように根源的なプロテストを行っているのである。



蛸壺やはかなき夢を夏の月  芭蕉(笈の小文)

Au fond de la jarre
sous la lune d'été
une pieuvre rêve


※Traduction de Corinne Atlan et Zéno Bianu
HAIKU Anthologie du poème court japonais Gallimard 2002

壺の底
夏の月の下は
蛸の夢


■なるほどなあと思った。仏訳は、原句の字義的な意味を伝えている。原句は、蛸壺や/はかなき夢を/夏の月と句中に二つ切れがあるように感じられる。だが、「や」の切れは、軽い切れではなかろうか。蛸壺ははかなき夢を夏の月としても意味的にはいいような気がする。この芭蕉の句は、「はかなき夢」がキーワードになっている。明日は捕えられる蛸のはかない夢と明けやすい夏の夜の月。「はかない」を「短い」(court)として、こんな感じではどうだろうか。


Sous la lune d'été―
au fond de la jarre
une pieuvre rêve court

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