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芭蕉の俳句(218)

(写真)untitled

■この頃、詩は上手ければいいとは思わなくなった。上手い詩に、心が動くことはあまりない。その意味では、職業詩人の書く詩は、プロの詩として、一読の価値はあるにしても、技術とは異なった次元で衝撃が少ないように感じる。たとえば、次の詩は、まだ、若い女性詩人の作品だが、男性には、感受できない(あるいは感受していない)領域が確かにあって、女性から見ると、このように世界はあるのか、という驚きを覚える。


例えば言葉を失くしても、
わたしはあなたのことがわかる
瞳の潤み、表情の癖、すねた背中、寂しい肩、そんなもので。

例えば視覚を失くしても、
わたしはあなたのことがわかる
声のトーン、しんぞうの音、寝息のリズム、そんなもので。

例えば聴覚をなくしても、
わたしはあなたのことがわかる
いつもの香水、髪の匂い、肌の薫り、そんなもので。

例えば嗅覚を失くしても、
わたしはあなたのことがわかる
汗、唾、血、精液の味、そんなもので。

例えば味覚を失くしても、
わたしはあなたのことがわかる
張り、粘り、皺、形―そう、
指の節、爪の硬さ、睫毛の密度、鼻のまるみ、
眉の薄さ、耳朶の柔さ、唇の湿度、舌の厚み、
背の滑らかさ、腰の窪み、臍から下りる緩い曲線、
その先の、
それをそうした時の反応、そうなるまでの時間、
あなた自身も知らないはずの、そんなものたちで。

例えば五感を失くしても、
わたしはあなたのことがわかる


その空気で、


あなたという、存在で。
 
亜久津歩「あなた」全行


■愛情は、愛であり情でもある。理知が中庸を志向するとすれば、愛情は狂気を志向する。愛情は、有り難きものであり、怖いものでもある。理知だけで人は生きられない。人は狂気を必要とするのだ。




秋深き隣は何をする人ぞ
  (笈日記)

■元禄7年作。この「秋深き隣」という措辞。「何をする人ぞ」という問いかけの深さ。この句も「狂」を突き抜けた人のみが到達できる領域ではないかと思える。



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