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往還日誌(55)





■特に、書くこともないまま、書き始めてしまった。

アマゾン・プライムで「孤独のグルメシーズン1」をすべて観た。このシーズンは、基本的に秋から冬にかけての季節が背景になっていると思った。もしかしから、冬から春かもしれないが、冬が入るのは間違いない。

井の頭五郎氏がパリに住んでいた過去のある人だったことが、このシーズンで明かされる。帰国して仕事にすることになる美しい雑貨との出会いは、パリだったのかもしれない。

五郎氏は、基本的に、食い気しかないが、なかなか、女性にもてることも描かれている。

ドラマだから、仕方がないのだろうけれど、一点、ずっと気になっていることがある。それは五郎氏の「早食い」である。食べ物をあまり噛んでいない。

最近知った禅の言葉に「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」というのがあって、茶を飲むときは、茶のことだけ、飯を食うときには飯のことだけ考えよと、という教えなのだが、これは、まさに、五郎氏の実践している、五郎氏の思想そのものである。

いかんせん、噛む回数が少なすぎる。飲み込むまでが早すぎる。

あれでは、完全な便秘になり、完璧な痔になる。

噛むことそれ自体より、むしろ、唾液と食物を合わせる行為が、これらを回避する、100%回避する。

毎日、排便の記録をつけている私が言うのだから、間違いない。

やはり、大して書くことがないとこうなる。

ところで、数学を含む科学(社会科学も含む)の「モデル構築」は、ほとんど、無意識にだが、すでに日常生活の中に存在する技術・発明に、その起源があり、その科学モデルが、次の新しい現実を生み出してゆく。ガウス平面による複素数の表現モデルや天体の運動モデルと「車輪の発明」など。

なので、社会の再生産における科学モデルの役割は、想像以上に大きいと思っている。これは、「操作」(manipulation)に占める科学モデルの役割の大きさを意味する。

この意味で、科学は、客観的な真理を追求しているつもりで、それは「人間的な、あまりに人間的な真理」なのである。なぜなら、その「客観的な真理」は、人間の労働形態に大きく規定されているからだ。

ただし、「人間的な客観性」――人間味があるという意味ではなく、人間の労働活動に規定された客観性という意味である――は存在し、その客観の「普遍性の程度」が、科学技術の暴力の源泉ともなっている。



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