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一日一句(907)







山茶花の空を遊べる小鳥かな






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ハンナ・アーレント(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督、2012年)




スタッフ
監督マルガレーテ・フォン・トロッタ
製作ベティーナ・ブロケンパー ヨハネス・レキシン
脚本マルガレーテ・フォン・トロッタ パメラ・カッツ

キャスト
バルバラ・スコバ ハンナ・アーレント
アクセル・ミルベルク ハインリヒ・ブリュッヒャー
ジャネット・マクティア メアリー・マッカーシー
ユリア・イェンチ ロッテ・ケーラー
ウルリッヒ・ノエテン ハンス・ヨナス

作品データ
原題 Hannah Arendt
製作年 2012年
製作国 ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作
配給 セテラ・インターナショナル
上映時間 114分

映画『ハンナ・アーレント』を観て来た。いろいろ、思うところがあった。この映画は、1960年にアルゼンチンに潜伏してたアイヒマンをモサドがイスラエルに連行するところから始まる。この映画は、アイヒマン裁判の傍聴を志願したアーレントを、中心に描き、年代的には、1961年5月にアイヒマンが絞首刑になる時期あたりまでを描いている。その間、ハイデッガーとの出会いや、学生時代の思い出などが回想される。なので、アイヒマンの行為をアーレントが、どう考えたかを中心に映画は制作されている。

アーレントのアイヒマン裁判傍聴記は、はじめ、雑誌『ニューヨーカー』に掲載された。このテキストの論点は、大きく言って二つある。一つは、アイヒマンは、特別な悪党でも怪物でもなく、平凡な市民であること。平凡な市民が、人間性を殺して、命令に従っただけで、いわば、役人が法律に従うように、ヒットラーの命令に従っただけで、ユダヤ人に対する憎悪も、軽蔑も、敵意もなかったこと。こうした普通の人が犯した巨悪をアーレントは「凡庸な悪」(the banality of evil)と呼ぶ。この議論が、全米のユダヤ系および一般市民から「アイヒマン擁護だ」という反発を招いた。

二点目は、あまり大きく取り上げられることはないが、実は、決定的な点だと思う。この映画で、ぼくも初めて知った。当時のユダヤの団体の指導者が、ナチに協力した事実を述べ、ほかの選択肢も可能だったと、述べた個所が、全米のユダヤ系およびイスラエルを激怒させたのである。アーレントは、戦中・戦後の欧州ユダヤ系学者のアメリカでの受け皿だった大学、the new school for social researchから、ニューヨーカーでの記事がもとで辞職勧告を受ける。

この映画を観て、やはり、旧日本軍のことを思った。平凡な市民が中国大陸で何をしたのか。なぜ、そうしたのか。そのプロセスは、アイヒマンそっくりだと思う。以前、ブログで「撫順戦犯管理所」について記述したので、そちらを見ていただきたい。

「撫順戦犯管理所(1)」
「撫順戦犯管理所(2)」
「撫順戦犯管理所(3)」
「撫順戦犯管理所(考察)」

アーレントは、アイヒマンを擁護したのではなく、「理解」しようとした。なぜ、アイヒマンが生産されたのか、理解できなければ、再び繰り返すと考えたからだろう。冷酷や傲慢という言葉で、アーレントを非難するユダヤ系の人々の気持ちは理解できるが、「アイヒマンは、ひどい悪人なのだから、同情の余地なく絞首刑にすればいい」という直線的な思考と感情だけでは、この闇は読み解けないような気がした。アイヒマンを非難している当のその人がアイヒマンになるかもしれない。イスラエルのパレスチナに対する行動が象徴的である。

「全体主義は、加害者も被害者も、そのモラルを破壊する」や「全体主義の最終段階に至って、動機のない根源的な悪が出現する」といったアーレントの言葉が記憶に残った。今のアメリカと日本は、ネオファシズムで同期を始めたと思う。この新しいファシズムが、どんな人間を生産しようとしているのか。いや、すでに生産している。アイヒマン生産と同じプロセスで。

ハンナ・アーレントは、非常に勇気がある。彼女の勇気は、多くの怒りと波紋を広げ、命さえ危うくなる。彼女自身も、人を傷つけたことに傷つき、その後、「悪の問題」をずっと考えてゆくことになる。「アイヒマンの悪の問題」に、われわれは、まだ、答えを見いだせていない、ということに、戦慄を覚えないわけにはいかないのである。



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