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瀬戸内寂聴著『それでも人は生きていく』書評



友人にMという、ぼくと同じように売れない詩人がいるのだが、彼の口癖に「オレはこんなひどい社会状況の中で、一回もパクられたことのない奴は信用できん」というのがある。きまって続けて「こんな社会に怒らん奴はおかしいやろ、な、そうやろ」と酒臭い息でたたみ掛けてくるのだった。「そうだ!」わたしの答えも決まっている。この本を読んで最初に感じたのは、この「そうだ!」と答えるときの、なにか熱いものがこみあげてくる気持ち、それにそっくりなのである。

本書は、徳島ラジオ商殺し事件から、連合赤軍事件、オウム真理教事件、そして現在進行中の反原発運動まで、瀬戸内さんが関わった、社会的な事件に関する文章を年代順に収めてある。作家の社会的行動の全貌が見渡せるという意味で、作家の実存の核をなしてきたものが何のか、また、どのように、それは形成されてきたのか、これらを知る上でも貴重な証言となっている。作家の武器は、言うまでもなく言葉である。瀬戸内さんは、言葉への感受性を最大限発揮し、権力が「現実」を構成してゆくプロセスをあぶり出してゆく。たとえば、徳島ラジオ商殺し事件では、一審の判決文に対して次のようなコメントを寄せている。「文章のまずさ、表現の大げさは、下手な三文小説か、三流講談のたぐいである。こんな文章しか書けない人物が、国家の裁判を預かり、人の命を自在に扱うのかと思うとぞっとせずにはいられない」(一四頁)われわれは言葉を所有しているわけではない。言葉に所有されているのである。どんな言葉に所有されているのか。そこに、その人間のこれまで生きてきた経験やその人間が現に生きている世界が現れる。瀬戸内さんのコメントは、ただ、裁判官の文章が下手だと言っているのではない。こういう世界に住む裁判官の、判断する人間としての資質を問うているのである。同じように、検察の求刑について、次のようなコメントを寄せている。「いくら鈍感な男でも、三度も軀に刺身包丁を刺されるまで立ち上がらないでおくものか。計画的犯行をする時、九つのK子を同じ部屋に寝かせておくのもおかしいし、自分が刺されてから、はじめて寝ているK子を起こしましたというのもうなずけない。暗闇の格闘なら、まちがって子どもを傷つけないともかぎらないではないか」(一四頁―一五頁)ここでも、瀬戸内さんは鋭い言語感覚を発揮し言葉と現実のズレを見事に突いている。検事の求刑が言葉の運動だけで成り立っていて、言葉に先行する現実(あるいは、真理)を言葉がつかまえていないことを「矛盾」として示しているのである。言葉の虚偽性を突いていると言ってもいい。ここで、注目すべきは、この作家の美質の一つである女性性である。検事の求刑は、「男性権力者の作文だ」と言っているのである。そして、この作文は繰り返し被疑者の耳に吹き込まれ、やがて「真実」になっていく。ゲッペルスの大衆操作の方法と原理的には変わらない。

国家や権力を否定する思想家や作家は多そうで、現実にはそう多くない。本書の、とりわけ法律と裁判を批判、というよりも否定する「裁判と冤罪」の章を読んだある編集者が「瀬戸内さんはまるでアナーキストですね」というと即座に「私はアナーキストですよ」といったという話も聞いた。瀬戸内さんの言葉を聞いてみよう。「私は革命家は好きだが、革命家と政治家は全くちがう。革命家ははじめから命を賭して、自分以外への何者かのために奉仕しようという情熱に燃えているから美しい」(四十頁)この奉仕の情熱は、宗教的な情熱ときわめて近い。日本で最初に『資本論』を翻訳した高畠素之や堺利彦、阿部磯雄、山川均、片山潜などに見られるように、初期の社会主義運動は、キリスト教の影響下から出発している。やがて、大正時代のアナボル論争を経て、社会主義者は、アナーキストとボルシェビストへ分裂してゆくが、本誌同人黒川洋氏によれば、アナーキストは、例外なく、俳句を詠み、ボルシェビストは短歌を詠んだという。中央集権的な組織論を主張したボルシェビストたちが、宮廷秩序の枠内で発達し、宮廷秩序の維持に貢献した短歌を好んだというのは、なかなか示唆的ではなかろうか。

瀬戸内さんは、俳句を詠む。しかも、瀬戸内さんの俳句は単なる文人俳句ではない。完全に散文とは切れた「ザ・俳句」である。

生ぜしも死するもひとり柚子湯かな
日脚のぶひめごともなき鏡拭く
雛飾る手の数珠しばしはづしおき
戦火やみ雛の顔の白さかな
反戦の怒涛のうねり梅ひらく
あかあかと花芯のいのち白牡丹
待ち待ちし軀の中まで天の川
鈴虫を梵音と聴く北の寺
御山のひとりに深き花の闇
菜の花や神の渡りし海昏く
雛の間に集ひし人のみな逝ける

こうした本格的な俳句は、宗教者、社会主義者、女性解放論者、アナーキストといった日本の解放運動の一つの系譜が、瀬戸内さんの中へ、統一的に流れ込んでいることを示しているのではなかろうか。

「まえがき」で瀬戸内さんは、本書は遺言だと書いている。たとえば、毎週金曜日、官邸前に集い、あるときは、スーツのまま、あるときは、普段着でデモをしている人々は、この遺言に応える人々である。「原発の問題もそう。危険にさらされているのに、じっと並んでね。それは行儀がいいんじゃなくて、飼いならされているだけなのよ。我々は税金を払って政治家たちを養っているのに、なんで言うことばかり聞くんですか」(二一四頁)権力の言葉ではなく、真理の言葉に耳を澄ませることは、新しい主体の誕生と同義である。新しい主体は、まだ少ないが、たしかに、生まれつつある。そのライフスタイルを変えながら。

『それでも人は生きていく』(二〇一三年五月 皓星社 二三〇〇円+消費税)

初出:雑誌『トスキアナ 18号』(2013年11月 皓星社)



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