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ミシェル・マフェゾリとニコ・シュテール(1)

日曜日、。強風。旧暦、8月17日。

昨日は、「現代社会と情報」と題した国際シンポジウムがあった。ミシェル・マフェゾリ教授(ソルボンヌ大学)とニコ・シュテール教授(ツェペリン大学)が講演を行った。今、翻訳している『サイバープロテスト』の問題圏とも重なり、興味あるテーマなので、出かけてみた。

講演後、二人に質問したのだが、通訳を介しているせいもあり、議論がかみ合わない印象を持った。講演自体は、なかなか興味深いものだったが、その議論には、いくつか、重要な問題があるように感じた。そこで、二人の議論を整理して、どこかどう問題なのか、考えてみたい。

1) ミシェル・マフェゾリの講演「コミュニケーションとポストモダン性」

マフェゾリは、1944年生まれ。シュトラスブール大学を経て現在ソルボンヌ(パリ第5)大学教授。著書に『支配の論理』(1976)『全体的暴力』(1979)『現在の征服』(1979)『通常知』(1985)『部族の時代』(1988)『感覚的理性の称賛』(1996)『世界の熟視』(1996)『放浪主義』(1997)『悪魔の分け前』(2002)『ポストモダン・ノート―場が人を結びつける』(2003)。法政大学出版局から翻訳も出ている。

【主な論点】

・情報は、人間敵領域とどう関わるのか、それを問題にしたい。
・人間を動物と区別するのは「知る」という行為である。
・人間は神話や物語、概念などを通じて他者に何事かを語る存在である。
・今日は、フーコーのエピステーメに依拠して議論したい。
・知ると言ったとき、欧州には、二つの系譜がある。一つはテオリアで理論知である。もう一つがエピステーメで具体的な場面に適用して知ることである。
・知るという行為は組織と関連している。エピステーメは組織的に知ることでもある。
・それは真の知識・認識どうかは問題にしない。
・フーコーの分析は、ギリシャローマの知り方としてのエピステーメが都市のあり方にどう影響したのか、明らかにすることだった。
・フーコー以外にも、エピステーメに対するアプローチとしては、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で行っている。
・ヴェーバーは、我々が世界を知るときには、実在しないものによって現実を知るのだと述べている。
・ここには、イマジネール(想像力)によって社会を理解していくという考え方が認められる。
・こうした現実を理解するための想像力の系譜には、ロゴス(ヘラクレイトス)、イデア論(プラトン)、欧州中世、近代の科学技術がある。
・トーマス・クーンにパラダイムの考え方がある。
・そのパラダイムの代表的なものが18世紀19世紀の「進歩」という神話である。
・サン・シモンとオーギュスト・コントはキリスト教に代わる宗教を求めることで学問を始めたが、その中に「進歩」という考え方が現れた。
・進歩思想の社会への影響としては合理化がある。
・進歩思想は実在の合理化につながる。
・科学技術は脱魔術化を促した。
・脱魔術化社会では「技術のための技術」がスローガンになる。
・言いかえると、己自体が目的になる。ハイデッガーの言葉で言えば「世界の堕落」である。
・近代の(への)想像が破綻の方向にある。
・多元性が姿を顕しつつある。
・ソローキンが言う、「変貌」が生まれつつある。つまり、化学の比喩があてはまる。物質の組合せで新しいものが生まれる。
・近代の想像の多元性がポストモダンの特徴である。
・そこでは自然との関連が取り沙汰される。
・技術に対する関連が変化し、技術を基盤にした進歩神話を維持するのではなく、合力(技術力と古いものが結びついたもの)が現れる。
・この実例は、インターネットの発展により、ブログに見られるような部族化が進む。
・性的部族や音楽的部族、スポーツ的部族など、一つのテーマに沿ったコミュニティがウェブ上に形成されている。これは、ウェブに限らず、サッカーや世界選手権のように、リアルでもありえる。
・部族化というのは、もともと世界の基礎になっていたものに戻るということである。
・ここにポストモダンの逆説がある。つまり、古いものが新しい技術の中に再現されるということである。
・その中にはノマディズム(放浪性)の復活もある。
・近代の忘れたものが復活する。
・この例としては、近代的政治概念の民族国家や帝国概念の復活がある。また、部族化が地域的に問題化している。これらは政治的な再帰である。
・例2として、社会的再帰がある。19世紀の人間関係のモデルは人と人が理性的に結びつくものだったが、情報がウェブに氾濫する現在、人と人は感情的に結びついている。音楽やスポーツをめぐっての感情の発露。これには、近代の所産である技術が感情的つながりを基盤にした共同体を実現させている面がある。
・例の3として社会性の再帰がある。若者は、携帯やウェブを通じて、個人に力点があるのではなく関連性に力点がある。人と人の結びつきが強化されている。
・伝達手段を通じて遊びの側面が重視されている。これはポストモダン性である。
・新しい技術によって相互が結びつく空間が形成されている。記号やシンボルを通じて人々が結びつく新しい社会性の出現である。
・ポストモダニティのパラドクスとは、技術が新しい段階に入り、世界の再魔術化が生じることである。

■以上が、マフェゾリ教授の主要な論点だった。面白い論点もあるが、すでに常識になっている論点もある。マフェゾリ教授の議論の大きな特徴は、現状の追認だと思う。そこには、「批判」という営みがない。批判はその前提に「個人」の存在があり、批判を可能にするなんらかの「価値」が存在する。個人は、ポストモダニストの教授に言わせれば、「存在しないもの」であり、価値は、経験科学者を自認する教授には、非科学的で重要性は低いだろう。

だが、近代の産物である経験科学と近代を否定するポストモダンの哲学を組み合わせる姿勢は、実に「学者」的でシステムに対する毒がない。実に「都合の良い」先生なのである。

また、ネットによる部族化が起きる背景には、ベックが言う「個人化」がある。個人化が進んでいるからこそ、人と人が結びつこうとしているのだ。その結びつこうとする力を、たとえば、安倍晋三などの権力者が利用しようとしたらどうなるか。多国籍企業などの強力な競争力を持った企業権力が収益のために利用しようとしたらどうなるか。すでにそうした部族化は起きているではないか。つまり、部族化と一口に言っても、だれが部族化を進めているのか、明確にしなければならないだろう。関係性に目を奪われると、「操作性」という視点が見失われてしまうだろう。

さらに、関係性に目を奪われると、部族化が持つ「他者性の欠如」という「差異性」に対する感受性が喪失されるのではないか。古い共同体の復活は、「古い悪の復活」も伴なう。この点をどう実践的にクリアするのか、その議論からは見えてこないのである。

数年前、癌に痩せた体をジャンパーに包んで登壇し、グローバリゼーションを批判したピエール・ブルデューの姿がしきりに思い出されたのであった。
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