食べることの工夫に関して、昔の人々は科学を知らなかったのに、とても賢いと思える。獲物や採取物の収穫の量的変動は必ずあり、その変動を均等化して行こうと考えたのだろう。麦や米を備蓄しておく方法がそれだ。「ない時」の為に、「ある時の分」をとっておく、という当たり前と言えば当たり前のことなのだが、これをやることで将来の不確実性というか、変動に対するリスクを小さくできるのである。人口の絶対数を増やすのにも役立ったことだろう。他にも色々な工夫は見られる。
昔は、どれが食べられるか、どれに毒があるか、などということは体系化されてはいなかった。それを知ることの為に、まさしく命懸けのチャレンジを行ってきたのだ。毒キノコかどうかは、誰も知らないのだから。食べられるかどうか、という情報を得ることの為に犠牲を払いながらも、次々と食べられるものを見出していったのだろうと思う。更に驚くことは、燻製だの、ハムだの、豆腐だの、アジの開きだの、よくぞこのような方法を見つけ出したな、と思えるものが多々ある。
普通、肉を腸詰めにして、長期間の保存に耐えられるようにしよう、とか思いつかないだろう。肉は放置しておけば、時間が経つと腐敗して腐ってしまう。魚もそうだ。折角大量に肉や魚を獲得しても、食べきれなければ腐ってしまう。それを無理に食べようとして、幾人もの命が犠牲になったことだろう。そういうのを乗り越えられるのは、知恵のお陰だ。肉や魚が獲得できない時であっても、長期保存が可能であれば、その保存分を食べることが可能になるのである。ハムとか、アジの開きというのは、恐らくそうした発想から生まれたのではないかと思う。偶然、誰かが干からびた肉や魚を食べてみたら、大丈夫だったとか、そういうことなのかもしれないが、何かのきっかけで製法を見つけ出し、工夫を重ねて完成度が高くなってきたのだろう。
豆腐を作る、納豆を作る、というのも、簡単に編み出せる製法ではないと思うが、食べることへの関心が高く、知恵を使ってきたのであろう。昔であれば、フグを食べたら死んだ人が必ずいたであろうに、食べることを止めず、どこを食べると「死ぬ」部分か、ということを知ったのも凄いと思う。毒の知恵はずっと昔からあったし、漢方の知識というのも、これに類する経験則の集積によるのだろう。昔の人々は、科学を知らなかったが、経験的に知った科学に近い知恵を応用して、生活の中に活かしてきたということだ。
土木や建築技術にしても、優れたものはたくさんあった。計算ができなければ、到底不可能であったろう、というレベルものが作られてきた。地図もなければ、GPSもないのに、あまり大きくもない船で航海し、あちこちと交易が行われていたというのも、かなり凄いと思える。琉球民族が台湾だの、マラッカ海峡だのと、はるか遠くに出かけていくのだから。日本から朝鮮半島へと渡って行くのも、1500年くらい前には出来たのだから。もしも現代人に同じ事をやってみろ、と言っても、簡単には真似できないものがたくさんあるのだ。昔と同じ小船を与えられて、「オマエ1人で行って来い」と言われても、多くが海の藻屑になってしまうかもしれません。
星だの、惑星だのを観察して、占いなどに用いられたりするのも、昔は観測・計測できるものが他になかった為に、大洪水の起こる確率、疫病の流行る確率、天候不順となる確率などを「何かの関係性」の中に見出そうとしたのだと思う。気象衛星もなければ、天気図もないし、降水量データもないので、自分たちが今観測できるものにしか「頼れるデータ」というものが存在しないからであろう。そういう経験則は航海においても同じく用いられていただろう。風向き、強さ、海の色、潮の流れ、そういったものを「体感」することで、自分の身体を用いて計測する、ということもあっただろう。羅針盤がなくとも、海図がなくとも、何かを観測することで、目的地に辿り着ける方法を知っていたということだ。
今の高校生くらいの人と、昔の偉人たちとを比べたら、前者の方が正しい知識は多いと思う。例えば、「天が回っている」などということを言わないからだ。昔の人は、「火と水と土と金から物質が構成されている」などということを言うかもしれないし。要するに、昔の人たちは「間違っていること」をたくさん信じていたし、知識の量では現代人に敵わないかもしれないが、違った頭の使い方があったのではないか。それこそ、少ない知識の中から「使える知恵」を組み合わせたりして、新たな知恵を生み出していたのではないか。考える能力のある人たちはあまり多くはなかったし、基本的な知識が乏しかったのでそこに到るまでには長い時間がかかっただろうが、経験から得られる情報などを活用して作り上げてきたのだろう。
このように考えてみれば、今の人は昔の人よりも正確な知識の量では優っているかもしれないが、昔の人々が必ずしもバカではなく、知識が少ないなりに実生活に役立つ知恵をつけてきたといえるだろう。そういう知の集積に多くの労力をかけた人々が必ず存在していて(その絶対数は多くはなかっただろうが)、着実に知識を増やしてきたのだと思う。ある時期から、人類はこうした知識獲得を開始したのだが、どうしてそれが起こったのかは判らない。
では、現代人はどうなのかといえば、知識は膨大な量に達するのであるが、果たしてハムや豆腐の製法を考え付くか、というと必ずしもそうではないだろう。そういう能力はまた別なのだと思う。ひょっとすると、知識の量が少なかった昔の人の方が「考える能力」が優れている、ということはあるかもしれない。これは、先日の梅田氏の記事に書かれていたことと関連してくるのであるが・・・・。
梅田氏の取り上げた「能力」について、再掲してみよう。
新しい情報環境をイメージしたときに重要性をぐんと増す能力とは何なのか。たとえば、能動的に情報を探索する能力、知を構造化する能力、断片的な情報から物事を俯瞰して理解する能力、情報の真贋(しんがん)を判断する能力、異質な情報を組み合わせて新しい価値を生み出す能力…。そういった能力は、どんな教育によって身についていくのか。新しい情報環境で陳腐化してしまう能力は何で、希少性ゆえに価値を生み出し得る能力はいったい何なのか。
ここで5つの例示された能力を箇条書きにしてみる。
・情報探索能力
・構造化能力
・断片情報から俯瞰して理解する能力
・真贋判断能力
・異質情報の組み合わせで価値を創造する能力
昔の人々は外部のデータベースが整備されていなかったことから、主に自然或いは現象の中に情報を求めることが多かっただろう。そして、先人を主とする他人の知恵と、自分の知恵を融合させて、前進する原動力としてきたのではないか。今よりも、「他の人の知識」を使える環境は非常に限られていただろう。
上の5つの能力は、昔の人のように生きていると、最も必要とされそうな気がする。有効な「知恵」として、生活環境を劇的に変えることが可能であったからではないか。だが、今の時代では逆にそういう能力を全員には必要とされないと思う。自分がやらなくても、誰も困らないからだ。ごく少数の誰かができていればいい。勿論、自分ができればそれに越した事はないが、できなくても仕方がないだろう。それで生きるのには困らないからだろう。
壁画を描くとか、石版に書くという記録を作って以来、人間は情報を書き遺すということができる場合もあった。しかし、殆ど多くの場合には、経験の中で伝承されたのだろう。口伝がほとんどだったろう。伝言ゲームのように途中で変わっていったりしたかもしれないが、それでも何とか後世に伝承されてきたのだ。書物などに記録できるようになる以前では、他の伝承方法を必要としたであろう。
例えば、歌・音楽のようなものはどうであろうか。一定の旋律を聴くと、歌詞を思い出せる、ということはあると思う。記憶の定着には役立つと思える。物語なんかもそうかもしれない。落語や講談などのようなものも、基本的には暗記であると思うが、内容的に多くのことを記憶するのが可能である。インド哲学なのか仏教なのか判らんが、他にもユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの教えというものは、多分これに類する記録が用いられたのではないかと思う。
「書く」ということができるようになってからは、記録が変わった。個人の記憶ばかりに頼らずともよくなった。情報の主なデータベースは、「誰かの脳みその中」だけではなく、「書物の中」に置くことができるようになった。そして出版物が広く出回るようになれば、情報に接する人の数が飛躍的に増大して、伝播速度も格段にアップしたので、それまで「他人の知恵」と「自分の知恵」を融合するまでにかかった時間は、大幅に短縮されたに違いない。情報の出会い確率が向上したからだろうと思う。
こうして、情報はどこまでも膨張を続け、知識はいくらでも増えてきたのだが、「役立つ知恵」としてはどうなのか判らない。将棋の指し手の組み合わせは、それこそ膨大にある訳であるが、意味のある(勝利するという目的の為の)手というのは、その場その場で限定されているのである。その特定の組み合わせを見出していくことは、並大抵の能力では達成できないのである。しかも、過去に定跡として既に網羅されているかもしれず、そこからの新たな変化図を見つけられるなら有意義であるが、無駄なトライでしかないかもしれない。
お金や人口とか、地球環境のような有限世界の出来事や常識は、こと情報の世界では役立たない部分があると思っていた方がよいかもしれない。これは人間の神秘さにも通じる部分でもあるかもしれない。神秘というよりも、不思議さ、ということかもしれないが。人間は何かを知るということに、いつの間にか喜びを見出す生き物になったのであろう。それ故、知の探求をしてしまう。情報を求め、知恵を使おうとする。どういうわけか、知への欲求、知識への欲望が定着してしまっているのである。
昔は、どれが食べられるか、どれに毒があるか、などということは体系化されてはいなかった。それを知ることの為に、まさしく命懸けのチャレンジを行ってきたのだ。毒キノコかどうかは、誰も知らないのだから。食べられるかどうか、という情報を得ることの為に犠牲を払いながらも、次々と食べられるものを見出していったのだろうと思う。更に驚くことは、燻製だの、ハムだの、豆腐だの、アジの開きだの、よくぞこのような方法を見つけ出したな、と思えるものが多々ある。
普通、肉を腸詰めにして、長期間の保存に耐えられるようにしよう、とか思いつかないだろう。肉は放置しておけば、時間が経つと腐敗して腐ってしまう。魚もそうだ。折角大量に肉や魚を獲得しても、食べきれなければ腐ってしまう。それを無理に食べようとして、幾人もの命が犠牲になったことだろう。そういうのを乗り越えられるのは、知恵のお陰だ。肉や魚が獲得できない時であっても、長期保存が可能であれば、その保存分を食べることが可能になるのである。ハムとか、アジの開きというのは、恐らくそうした発想から生まれたのではないかと思う。偶然、誰かが干からびた肉や魚を食べてみたら、大丈夫だったとか、そういうことなのかもしれないが、何かのきっかけで製法を見つけ出し、工夫を重ねて完成度が高くなってきたのだろう。
豆腐を作る、納豆を作る、というのも、簡単に編み出せる製法ではないと思うが、食べることへの関心が高く、知恵を使ってきたのであろう。昔であれば、フグを食べたら死んだ人が必ずいたであろうに、食べることを止めず、どこを食べると「死ぬ」部分か、ということを知ったのも凄いと思う。毒の知恵はずっと昔からあったし、漢方の知識というのも、これに類する経験則の集積によるのだろう。昔の人々は、科学を知らなかったが、経験的に知った科学に近い知恵を応用して、生活の中に活かしてきたということだ。
土木や建築技術にしても、優れたものはたくさんあった。計算ができなければ、到底不可能であったろう、というレベルものが作られてきた。地図もなければ、GPSもないのに、あまり大きくもない船で航海し、あちこちと交易が行われていたというのも、かなり凄いと思える。琉球民族が台湾だの、マラッカ海峡だのと、はるか遠くに出かけていくのだから。日本から朝鮮半島へと渡って行くのも、1500年くらい前には出来たのだから。もしも現代人に同じ事をやってみろ、と言っても、簡単には真似できないものがたくさんあるのだ。昔と同じ小船を与えられて、「オマエ1人で行って来い」と言われても、多くが海の藻屑になってしまうかもしれません。
星だの、惑星だのを観察して、占いなどに用いられたりするのも、昔は観測・計測できるものが他になかった為に、大洪水の起こる確率、疫病の流行る確率、天候不順となる確率などを「何かの関係性」の中に見出そうとしたのだと思う。気象衛星もなければ、天気図もないし、降水量データもないので、自分たちが今観測できるものにしか「頼れるデータ」というものが存在しないからであろう。そういう経験則は航海においても同じく用いられていただろう。風向き、強さ、海の色、潮の流れ、そういったものを「体感」することで、自分の身体を用いて計測する、ということもあっただろう。羅針盤がなくとも、海図がなくとも、何かを観測することで、目的地に辿り着ける方法を知っていたということだ。
今の高校生くらいの人と、昔の偉人たちとを比べたら、前者の方が正しい知識は多いと思う。例えば、「天が回っている」などということを言わないからだ。昔の人は、「火と水と土と金から物質が構成されている」などということを言うかもしれないし。要するに、昔の人たちは「間違っていること」をたくさん信じていたし、知識の量では現代人に敵わないかもしれないが、違った頭の使い方があったのではないか。それこそ、少ない知識の中から「使える知恵」を組み合わせたりして、新たな知恵を生み出していたのではないか。考える能力のある人たちはあまり多くはなかったし、基本的な知識が乏しかったのでそこに到るまでには長い時間がかかっただろうが、経験から得られる情報などを活用して作り上げてきたのだろう。
このように考えてみれば、今の人は昔の人よりも正確な知識の量では優っているかもしれないが、昔の人々が必ずしもバカではなく、知識が少ないなりに実生活に役立つ知恵をつけてきたといえるだろう。そういう知の集積に多くの労力をかけた人々が必ず存在していて(その絶対数は多くはなかっただろうが)、着実に知識を増やしてきたのだと思う。ある時期から、人類はこうした知識獲得を開始したのだが、どうしてそれが起こったのかは判らない。
では、現代人はどうなのかといえば、知識は膨大な量に達するのであるが、果たしてハムや豆腐の製法を考え付くか、というと必ずしもそうではないだろう。そういう能力はまた別なのだと思う。ひょっとすると、知識の量が少なかった昔の人の方が「考える能力」が優れている、ということはあるかもしれない。これは、先日の梅田氏の記事に書かれていたことと関連してくるのであるが・・・・。
梅田氏の取り上げた「能力」について、再掲してみよう。
新しい情報環境をイメージしたときに重要性をぐんと増す能力とは何なのか。たとえば、能動的に情報を探索する能力、知を構造化する能力、断片的な情報から物事を俯瞰して理解する能力、情報の真贋(しんがん)を判断する能力、異質な情報を組み合わせて新しい価値を生み出す能力…。そういった能力は、どんな教育によって身についていくのか。新しい情報環境で陳腐化してしまう能力は何で、希少性ゆえに価値を生み出し得る能力はいったい何なのか。
ここで5つの例示された能力を箇条書きにしてみる。
・情報探索能力
・構造化能力
・断片情報から俯瞰して理解する能力
・真贋判断能力
・異質情報の組み合わせで価値を創造する能力
昔の人々は外部のデータベースが整備されていなかったことから、主に自然或いは現象の中に情報を求めることが多かっただろう。そして、先人を主とする他人の知恵と、自分の知恵を融合させて、前進する原動力としてきたのではないか。今よりも、「他の人の知識」を使える環境は非常に限られていただろう。
上の5つの能力は、昔の人のように生きていると、最も必要とされそうな気がする。有効な「知恵」として、生活環境を劇的に変えることが可能であったからではないか。だが、今の時代では逆にそういう能力を全員には必要とされないと思う。自分がやらなくても、誰も困らないからだ。ごく少数の誰かができていればいい。勿論、自分ができればそれに越した事はないが、できなくても仕方がないだろう。それで生きるのには困らないからだろう。
壁画を描くとか、石版に書くという記録を作って以来、人間は情報を書き遺すということができる場合もあった。しかし、殆ど多くの場合には、経験の中で伝承されたのだろう。口伝がほとんどだったろう。伝言ゲームのように途中で変わっていったりしたかもしれないが、それでも何とか後世に伝承されてきたのだ。書物などに記録できるようになる以前では、他の伝承方法を必要としたであろう。
例えば、歌・音楽のようなものはどうであろうか。一定の旋律を聴くと、歌詞を思い出せる、ということはあると思う。記憶の定着には役立つと思える。物語なんかもそうかもしれない。落語や講談などのようなものも、基本的には暗記であると思うが、内容的に多くのことを記憶するのが可能である。インド哲学なのか仏教なのか判らんが、他にもユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの教えというものは、多分これに類する記録が用いられたのではないかと思う。
「書く」ということができるようになってからは、記録が変わった。個人の記憶ばかりに頼らずともよくなった。情報の主なデータベースは、「誰かの脳みその中」だけではなく、「書物の中」に置くことができるようになった。そして出版物が広く出回るようになれば、情報に接する人の数が飛躍的に増大して、伝播速度も格段にアップしたので、それまで「他人の知恵」と「自分の知恵」を融合するまでにかかった時間は、大幅に短縮されたに違いない。情報の出会い確率が向上したからだろうと思う。
こうして、情報はどこまでも膨張を続け、知識はいくらでも増えてきたのだが、「役立つ知恵」としてはどうなのか判らない。将棋の指し手の組み合わせは、それこそ膨大にある訳であるが、意味のある(勝利するという目的の為の)手というのは、その場その場で限定されているのである。その特定の組み合わせを見出していくことは、並大抵の能力では達成できないのである。しかも、過去に定跡として既に網羅されているかもしれず、そこからの新たな変化図を見つけられるなら有意義であるが、無駄なトライでしかないかもしれない。
お金や人口とか、地球環境のような有限世界の出来事や常識は、こと情報の世界では役立たない部分があると思っていた方がよいかもしれない。これは人間の神秘さにも通じる部分でもあるかもしれない。神秘というよりも、不思議さ、ということかもしれないが。人間は何かを知るということに、いつの間にか喜びを見出す生き物になったのであろう。それ故、知の探求をしてしまう。情報を求め、知恵を使おうとする。どういうわけか、知への欲求、知識への欲望が定着してしまっているのである。