これはユニークな研究だね。
「報酬があれば潜在意識が教えてくれる」:人間で初めて実証 WIRED VISION
(一部引用)
線条体がもっとも真価を発揮するのは、報酬が大きい、単純な意思決定の場面だ。つまり、意識による観察では見逃してしまう情報を、潜在意識に働きかけるヒントが伝えてくれるような場面だ。例えば、ポーカーをしている最中の「ふとしたしぐさや気配」だ。
「ポーカーをしていると、(あのプレイヤーは)ブラフをしていると何かが教えてくれる瞬間がある」とPessiglione氏は言う。「賭け金を上げるべきだ、という直感が働くことがあるが、本人にもその理由はわからない。だが、金が手に入るという形で報われる。これは線条体に備わっている力のように思われる」
=====
これは何となく判る気がする。
「意識による観察では見逃してしまう情報」というのが、個人的経験からは「何となくあるのかも」と思えるからだ。どうしてそう考えるのか本人にも理由が判らないとしても、何らかの情報があれば直感が働くかもしれない、ということだと思う。
以前に書いた記事>金融政策とtarget
この中で、次のように書いた。
『数値を過信しない、機械的判定を過信しない、というのは、事故やミスを防ぐ大きな要因だと思っています。機械類の数値が絶対に正しい、ということはない、と心の何処かに常に思っていることが重大な失敗を防いでくれる、と私個人は考えています。それは経験的な勘というか、それ以外のいくつかの情報から異常を(感覚的に)感知出来るか、ということなんですけれども。「何となくオカシイ」と感じることが出来るように、数字ばかり、器械ばかりを信じない、ということを経験的に知っておくということだと思います。』
「何となく~」という感覚がそれに近く、後から考えてみても「たまたま気付いただけなんじゃないかな」みたいにしか言いようがなくて、気付いた時点では自分でも「勘だな」としか思えないようなことかな。
<ちょっと寄り道:
この記事を書いて数日後くらいだったか、例の「風の息吹を感じ取れ」の社説(吹雪によるどこかの脱線事故だった)が出たような記憶がある。なので、同種の主張をしていると思われていたかもしれない(笑)。まあ、どうでもいいんですけど。>
このような感覚は、ある程度場数を踏まないと培われないのではないかと思います。生まれてはじめて麻雀をする人とかポーカーをする人が、周囲の人間の「ふとした仕草や気配」なんかを察知できるとは思われないからだ。親はデカい手をテンパっているみたいだ、とか、あいつはブラフでしかない、とか、そういうことが判らないもんね。wiredの記事にあったように、「学習」の効果が発揮される程度には学習しておくということが必要になるのだろう。なので、やはり経験を積む、場数を重ねる、というようなことが大事なのではないかと思う。そうすると、過去の蓄積された情報(条件)との照合が意識外(潜在意識?)で行われ、何らかの異常とか気配とかそういうことを察知できるようになるかもしれないね。
ああ、あと気になったのが、
「これらの被験者は、自分に特殊な力があると確信していた」とPessiglione氏は言う。「こういう確信には、ある意味精神疾患的傾向があると言える」
というご指摘があったことかな。
私自身は、そういう「特殊な力」(笑)があると確信しているわけじゃないが、でもまあ「あるかもね、あっても不思議じゃないかもね」と考えていたので(*)、これは「ある意味精神疾患的傾向」と形容されうるかもしれない。これまでの拙ブログなどをお読みになっていた方々にとっては、「やっぱりな」と内心思っておられるかもしれませんね(笑)。
(*):しつこくちょっと追加ですけど、誤解があるといけないので書いておきますが、これは「自分自身に持っている力」ということを信じてなんかいませんよ、そりゃ勿論(笑)。オレにはないと思うけど、世の中には、理論的というか科学的に解明されていて説明できる程度にはまだなっていないような「経験的に培われた勘」のようなもの(?)は存在するのではなかろうか、ということを信じている、という意味ですので。オレはカバキック…じゃなかった、サイキックじゃない(笑)。
そうかなぁー、自分では「傾向」はあるかもしれないが、「疾患」だとは思っていなかったので(笑)。
日常では普通っぽいと思うけど。けれども、他人からの評価というのは自分が思っているのと全く違うということはあるので、他の人たちからすると例えば「パラノイアっぽい」とか思われてるのかも(笑)。それとも、「ありきたりの統合失調症でしょ、普通に」とか言われたりして~~(笑)
(そうか、それがブログ通信簿で年齢10歳を獲得した、もとい判定された所以かもしれんな……あれは結構イイ線行ってるのかもしれん)
「報酬があれば潜在意識が教えてくれる」:人間で初めて実証 WIRED VISION
(一部引用)
線条体がもっとも真価を発揮するのは、報酬が大きい、単純な意思決定の場面だ。つまり、意識による観察では見逃してしまう情報を、潜在意識に働きかけるヒントが伝えてくれるような場面だ。例えば、ポーカーをしている最中の「ふとしたしぐさや気配」だ。
「ポーカーをしていると、(あのプレイヤーは)ブラフをしていると何かが教えてくれる瞬間がある」とPessiglione氏は言う。「賭け金を上げるべきだ、という直感が働くことがあるが、本人にもその理由はわからない。だが、金が手に入るという形で報われる。これは線条体に備わっている力のように思われる」
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これは何となく判る気がする。
「意識による観察では見逃してしまう情報」というのが、個人的経験からは「何となくあるのかも」と思えるからだ。どうしてそう考えるのか本人にも理由が判らないとしても、何らかの情報があれば直感が働くかもしれない、ということだと思う。
以前に書いた記事>金融政策とtarget
この中で、次のように書いた。
『数値を過信しない、機械的判定を過信しない、というのは、事故やミスを防ぐ大きな要因だと思っています。機械類の数値が絶対に正しい、ということはない、と心の何処かに常に思っていることが重大な失敗を防いでくれる、と私個人は考えています。それは経験的な勘というか、それ以外のいくつかの情報から異常を(感覚的に)感知出来るか、ということなんですけれども。「何となくオカシイ」と感じることが出来るように、数字ばかり、器械ばかりを信じない、ということを経験的に知っておくということだと思います。』
「何となく~」という感覚がそれに近く、後から考えてみても「たまたま気付いただけなんじゃないかな」みたいにしか言いようがなくて、気付いた時点では自分でも「勘だな」としか思えないようなことかな。
<ちょっと寄り道:
この記事を書いて数日後くらいだったか、例の「風の息吹を感じ取れ」の社説(吹雪によるどこかの脱線事故だった)が出たような記憶がある。なので、同種の主張をしていると思われていたかもしれない(笑)。まあ、どうでもいいんですけど。>
このような感覚は、ある程度場数を踏まないと培われないのではないかと思います。生まれてはじめて麻雀をする人とかポーカーをする人が、周囲の人間の「ふとした仕草や気配」なんかを察知できるとは思われないからだ。親はデカい手をテンパっているみたいだ、とか、あいつはブラフでしかない、とか、そういうことが判らないもんね。wiredの記事にあったように、「学習」の効果が発揮される程度には学習しておくということが必要になるのだろう。なので、やはり経験を積む、場数を重ねる、というようなことが大事なのではないかと思う。そうすると、過去の蓄積された情報(条件)との照合が意識外(潜在意識?)で行われ、何らかの異常とか気配とかそういうことを察知できるようになるかもしれないね。
ああ、あと気になったのが、
「これらの被験者は、自分に特殊な力があると確信していた」とPessiglione氏は言う。「こういう確信には、ある意味精神疾患的傾向があると言える」
というご指摘があったことかな。
私自身は、そういう「特殊な力」(笑)があると確信しているわけじゃないが、でもまあ「あるかもね、あっても不思議じゃないかもね」と考えていたので(*)、これは「ある意味精神疾患的傾向」と形容されうるかもしれない。これまでの拙ブログなどをお読みになっていた方々にとっては、「やっぱりな」と内心思っておられるかもしれませんね(笑)。
(*):しつこくちょっと追加ですけど、誤解があるといけないので書いておきますが、これは「自分自身に持っている力」ということを信じてなんかいませんよ、そりゃ勿論(笑)。オレにはないと思うけど、世の中には、理論的というか科学的に解明されていて説明できる程度にはまだなっていないような「経験的に培われた勘」のようなもの(?)は存在するのではなかろうか、ということを信じている、という意味ですので。オレはカバキック…じゃなかった、サイキックじゃない(笑)。
そうかなぁー、自分では「傾向」はあるかもしれないが、「疾患」だとは思っていなかったので(笑)。
日常では普通っぽいと思うけど。けれども、他人からの評価というのは自分が思っているのと全く違うということはあるので、他の人たちからすると例えば「パラノイアっぽい」とか思われてるのかも(笑)。それとも、「ありきたりの統合失調症でしょ、普通に」とか言われたりして~~(笑)
(そうか、それがブログ通信簿で年齢10歳を獲得した、もとい判定された所以かもしれんな……あれは結構イイ線行ってるのかもしれん)