いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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国と地方の大断層3

2005年11月11日 21時50分16秒 | 社会全般
中教審では「国が責任を持って義務教育を担っていく」ということになって、要するに今まで通り、ということだと思う。それで、従来の方法を続けてきて、地方の教育が良くなったのか?どうなんでしょう。国がやってきたので、全国の教育がうまくいったという評価なんだろうか?文部省が主導してきたことが大きなプラスであり、地方にはない優位性があったということだろうと思う。でもそういうことがずーっと続けられてきて、学者に言わせれば「教育格差」そして「希望格差社会」まで、最近では「下流社会」までもが生まれてきちゃったんですよね(笑)。こういう現状を振り返って、それでもやっぱり今のままが最も良い教育なのかな?


地方にしても、「我々がちゃんとやれるんだ」ということを、政府・省庁に向かって主張しているんだけれども、ここに意識のズレがあるんだろうと思う。今の義務教育問題は財政問題としてだけ扱われてしまって、本質的な教育の問題をどうするのか、地域の人々にとっても「どうなるんだか、よく分らんな」ということになっているだろう。住民たちが「自分達(の子供達)の為に地方に財源を」という取り組みを一緒に考えたり、財源・権限を移譲してもらったら「こんな風な学校にしたい」「こういう仕組みをつくっていこう」「教員だけに頼らないで、地域住民もこういう参加をしてもらう」といったことが出されたりしない。国民にとっては、お金を出してくれるのが国だろうが、都道府県だろうが、あんまり変わらんと思うよ。ですが、学校への希望とか、教師への要望とか、そういうことってたくさんあると思う。「義務教育の問題」とかって言いながら、実は単に国と地方という権力構造の中での対決に過ぎなくなっているように思う。だから、国民にとっては分りにくいし、どちらになっても大して変わらない感じしか持たないと思うよ。地方に移ってきたら、実際にどういう取り組みを考えているのか、示すべきなんじゃないのかな?従来と全く変えないなら変えないということを確約するべきだし。変えていくなら、どこをどんな風に変えていくか、ということを伝えるべきなんじゃないのかな。


だが、知事会を中心に地方六団体は政府や省庁に向かってだけ、意見を言っている。本当に「よい教育を目指して」いるんだろうか?これは中教審も同じだ。文部科学省もそう。結局、今の教育制度、仕組みでいいんだよ、ということなんですか?本当に必要な事は、地域住民にも一緒に考えてもらって、地域の財政にも教育にも住民の協力を得ることでしょ?積極的に地域行政にも関わってもらって、理解をしてもらい、住民達が自ら「何か力になれることはないか」という姿勢になってもらうことなんじゃないのかな?住民達が「自分達は何も出来ない。だから完全委任で」ということならば、従来通り国が定型的に決めてちゃっちゃとやってくれれば十分だし。そういう選択が住民に提示されてもいいんじゃないのかな。今は「より高度な政治的問題」となっていて、最も身近な問題であるはずの教育が、国民からは随分と遠く離れたところで議論が進んでいる感がある。


もしも地方に税源も権限も移譲するということになれば、それ相応の覚悟が必要ですよ、住民達にも。地域の自己責任ということで、自分達がその結果についても連帯責任を負うつもりでやらないと。そういう取り組みをやっていく覚悟が果たしてあるかな?自分達の理想を目指して、学校作りに取り組めるならそれでいいと思うけど。出来そうにないなら、変えずにいる方が無難だな。工夫や努力が必要であり、住民達にも「自分達の学校」という当事者意識が高まらないとダメだな。まさに「地域で育てる」意識でやらなければ、きっとうまくいかないだろう。そういう将来像を見据えて、地域住民が一緒に「三位一体の改革」とか「義務教育費移譲」問題を本当に考えているんだろうか?そういう提案を各自治体はやってきたか?国や文部科学省は、住民達に覚悟の喚起を、或いは有無を確認したか?


どちらも、国民に向かっては、話そうとしていないような気がする。子供達の為を思っていい教育を、ということでもないような気がする。なのに、教育の問題として考えなければならないところに、難しさがある。どちらの主張も理解できるけれども、心には響いてこない。多分「子供達の為に」と心底思っていないからだと思う。「地方行政(財政)の為に」とか「文部(科学)省の為に」とか、そういう思惑が透けて見えるからなのかもしれない。



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