いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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プロと素人をつなぐもの

2007年05月20日 23時22分21秒 | 社会全般
今日の読売新聞朝刊の「地球を読む」は、先頃中教審の会長に就任された山崎正和氏の「プロを敬う社会に」と題された記事であった。深く共感を覚えた。

その一部を引用してみる。

 だが現代社会の素人優位、専門性軽視の風潮異常に根が深いように思われる。教師と同じく「先生」と呼ばれる医師についても、権威は地に堕ちないまでも、微妙に揺らぎかけている形跡がある。先進国で医療訴訟があいつぎ、病院不祥事の報道が氾濫するなかで、明らかに医師の士気と使命感は低下しているといわれる。きわどい症例の治療にあたって、冒険的な処置を試みるよりも、事なかれ主義に傾く医師が増えたと聞いた。
 現代医療を象徴する「インフォームド・コンセント」(情報を受けた上で同意すること)にしても、ごく一部だが、医師の自己防衛に使われているのを感じることがある。治療法の予後と予想を伝えるのは親切だが、複数の治療法を示して、素人の患者に選ばせるような場合があるからである。どうやら医学界の全体が謙虚になったのはよいが、代わりに必要な権威と責任感を放棄し始めているという印象を覚える。その証拠に、病院の掲示板に「患者さま」という敬称がめだつと思うのは、素人のひがみだろうか。



最近取り上げてきた医療関連の話であるが、教師の窮状と同じく戦意喪失に陥るのは時間の問題なのではないかと思う。いや、既に陥っている面があるのだろう。それが医療崩壊の根本的な問題なのであるのだから。


更に記事から引用してみる。

 そういえばかねて日本には「官僚バッシング」の風潮が顕著で、とくにプロらしい官僚が憎まれる傾向が強い。主婦の一群が官庁に抗議に赴き、官僚が正確なデータを示して対応すると、「素人に数字を並べるとは何ごとか」と怒号があがったとの逸話もある。政治家もプロらしさは嫌われるらしく、大嶽秀夫氏の近著『小泉純一郎ポピュリズムの研究』によると、前首相は言動の素人らしさ、素人らしさの演出によって人気を集めたという。
 だがどう考えても社会の倫理性を自然に高めるためには、人が職業人の誇りを抱き、結果として「恥を知ること」が第一である。そのさい、「高貴なる者の責任」は本人がまず自覚するのは当然だが、この自覚はその高貴さを社会が敬うことで支えられている。しかも現代のプロフェッショナルはその9割以上が、じつは誠実に任務に貢献していると考えられる。ここはひとつマスコミも含めて、社会をあげて彼らの実像を讃え、一層の使命感へとおだてあげる道はないものだろうか。



このことは、これまでの記事で似たようなことを取り上げたことがある。岡崎氏の述べていた「完全主義の文化」ということと共通するものである。

エリート教育は国際競争力を高めるか

仕事の経験と教育

私の「こころ」は有限世界なのか?~その5

どのような分野であっても、「職人(プロフェッショナル)」の人たちがいい仕事をすることが社会全体の役に立つのであり、それを評価してあげることは必要なのだ、ということを多くの人々に考えてもらえればいいのだが、一度失われたものを取り戻すことは新たに獲得するよりももっと困難を伴うものであろう。