いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「適応力」という能力

2007年05月29日 22時02分00秒 | 俺のそれ
ZARDのボーカル、坂井さんという方が亡くなったのはとても残念だ。
実は、グループ名しか知らずに過してきた。私と同学年か、いっこ下だと思うので、複雑な心境だ。そういう年代に入っているんだな、と。
これまで何枚かのCDを買ったし、コナン君の主題歌でも聞いてたな。でも、どんな人か、ということに余り興味を抱くことはなかったし、名前も知らないまま曲だけ聴いていた。メンバーが何人なのか気にしたこともなかった。そうではあっても、好きなグループだった。

何と言うか、1つの時代が過ぎたんだな、と思った。


ところで、話は変わるのだが、はてな住人は本当にこういうのが好きなんだね。

はてなブックマーク - Life is beautiful ネットの時代には「知識量・記憶力」よりは「適応力・応用力」の方がずっと大切

批判とかではないので、一応お断りしておく。
適応力をつけるのはかなり難しいのではないかと思う。単純に自己努力だけでどの程度達成されるかは判らないのではないかな。割と簡単に全員が同じくらいになるなら、個体の優劣がつかないのであんまり意味がないような気もする。時々「適応能力が高い個体が生まれる、存在する」ということなら、そういう能力を持ったヤツの中から「別な何か」が生ずるかもしれないので、意味があるように思えたり…
なので、目がいいとか、速く走れるとか、そういう能力の違いの中の1つに、「適応能力が高い」ということもあるんじゃないだろうか、と。そうであるなら、後天的に自己努力をしようと思っても、難しい部分があるのかもな、と。きっと、優れた人たちには、所謂「頭がいい」というのと同じように「適応能力が高い」といった能力が備わっているのではなかろうか、と。元々持ってない人たちにとっては、結構ハードルが高そうかも。

勿論、訓練次第では若干は補えるかもしれないが、一般人にとっては、15歳の少年がゴルフでいきなり優勝するようなわけにはいかない。僅か数年の経験しかない少年にできることが、普通の人々にとっては、何年も何十年もゴルフをやっていてもやっぱりできないのだ。そういう特別な能力を持つ人々は「できても不思議じゃない」と思うかもしれないが、持たざる人間にとっては残酷な話なのである。ちょっと大袈裟か。でも、イメージ的には近いというか、それに類することは世の中には多いのではなかろうか、と思っている。

ところで、自分の知能指数って、みんな知っているのだろうか?どうやって知ったのだろうか?私が小学校~高校の間では、そういうような知能テストみたいなものがあったように記憶しているが、結果については公表しない(個別にも教えない)ということになっていたように思う。理由は判らんが。当時は日教組とかの影響力が強くて、「差別につながるからダメ」とか、「過当競争を生むのでダメ」とか、何かそういった理由で教えてもらえなかったのかもしれない。だから、自分の知能がどの程度なのかは、知ることはなかった。
しかし、自分では大体判るよね、敢えて聞かなくても(笑)。周りの状況とか見ていると、「ああ、自分とは違って、勉強できる人はやっぱり頭がいいんだろうな」とは思っていた。自分自身はまあ平凡な、取り立てて特色のない普通の能力の持ち主だろうと思っていた。なので、仮に知能指数が判ったとしても、標準的かそれよりちょい上?くらいなんじゃないのかな。

<ちょっと寄り道:
因みに、普通の人々に成績ってどれくらいだったの?とか質問した場合、「ううーん、中の中か中の上くらい」とかありがちな答えかもしれない。真ん中よりちょい上くらいが、自分自身の尊厳を微妙に保ちつつその他大勢よりかは少しマシってことを表明でき、尚且つイヤミな感じが過剰にならないような答え、ということなのではなかろうか。財産保有具合にしても、結構持っている人々が答える時にも、「普通より少し多いくらい」とかありがちなのではなかろうか。他の例だと、合コンの参加者について、女の子が友人知人などを評して「結構可愛いわよ。そうね、中の上よりはいいと思うわよ」とか何とか言っていたとしても、これは全く当てにはならないことはご存知の男性諸君も多いだろう。当日面と向かった時に、思わず「ナンダよ~」と心の声がこだまする。笑
つまり、日本人の多くは60点ないし65点くらいを答えておくのが、居心地がいいというか、無難な答えなのではないかな、と。ああ、いっときますけど、私の知能に関しては、これとまるで関係ないですよ。笑。本当に平均よりかはちょい上程度だろう。まあ、これは書いている記事の中身を読んでおられる方々には先刻承知之介だろうと思いますけど。>


そういう訳で、自分の知能とかその他能力については大体自分で読めるので、どうにかなるとかは思えなくなっているんだろうな。若い人たちはまだまだ先があるから、色々と努力してみた方がいいとは思うけど。いつまで経ってもシングル・プレイヤーになれないアマチュアゴルファーの挫折感みたいなのを味わうことになるかもしれないので、予め心の準備をしておいた方がいいかも。


参考記事:
『「これをやったら急激に頭がよくなった」という方法』に群がるのは何故なのか?



「死人に口なし」~by 伊吹文科大臣

2007年05月29日 12時07分37秒 | 政治って?
松岡大臣の死去に関して、いくつか気になったことをメモ程度に書いておく。

・安倍総理のこと

恐らく最も責任を感じているだろう。昨日のインタビューの様子を見ても、声はか細く弱々しかった。ゲッソリしたような表情であった。それはそうだろう。人が一人なくなったわけだし。

「辞めさせない、辞める必要はない」として、野党側に屈することを「形式的に」拒んだことに、自分の責任を感じていたであろうからだ。松岡大臣を「これ以上傷つけさせない」という、人間的感情―温情というべきか―で守っていたのであったなら、「身を引いてくれ」と言えたであろう。しかし、野党との戦術の都合上、更には内閣支持や「安倍カラー」に拘泥してしまったが為に、自民執行部の強気方針への方向転換に利用するだけになってしまったからだ。本人の為を思うのであれば、大臣の任を解くことこそが必要であったのだ。

これができなかった安倍総理としては、自分に責任を感じるのは当然であろう。「そこまで追い込んでしまっていたのか…」という思いがあったからこそ、あのようなインタビューとなったのだろうと思った。


・死人に口なし

最も違和感を覚えたのは、伊吹大臣の一言。
「死人に口なし」ということになって…云々とかナントカ言っていたのだが、「お前がゆうな!」といったところだろうか。
確かに、死んだ人に罪を被せるということの意図なのだろうが、イメージが非常に悪すぎる(笑)。時代劇を好むから、というような私の個人的バイアスもあるのだろうが、悪巧み一味とかが謀殺したみたいな感じ。

悪者「お前には○○の下手人として死んでもらおう。後は『死人に口なし』だからな。ふぅぁあー、はっはっは」
 →バッサリ切られる

とか、

刑事1「ガイシャはヤクの売人だ。恐らく捜査が迫っていたので殺されたものと…」
刑事2「ホニャララ組のやつら、トカゲの尻尾切りだな…これで『死人に口なし』か…」

みたいな感じ。
仮に死亡した人が自分の無実を言えないから、ということを説明しようと思っていたにしても、選んだ表現が「死人に口なし」というのはマイナスのイメージが強い。しかも、”あの伊吹大臣”に言われた日にゃ…


・執行部責任

自民党の執行部は大失態をやった。戦術の選択ミスだ。野党の追及を撥ねつける為だけに、松岡大臣問題を野晒しにした。公明党からも、「マズイよ。どうにか進退に決着をつけてくれないと」という要求はあったろう。それを強硬路線に方針転換して「独走」したのは執行部に責任があったろう。辞める必要がない、ということを表立って言い続けることが、かなり大きなプレッシャーに変わっていっただろう。健康問題とか、名目上の辞任理由を考えることだってできたわけだし、安倍総理を守ろうと思うのであれば誰かが「切られ役」を引き受けてやらねばならなかったであろう。「野党の要求に屈したわけじゃない、だが、辞めるにしかるべき理由があったから辞任したんだ」という体面だけでも保って、党内の「ヤメロコール」の収束を図っておくべきだったのではないか。今、この時期になってからでさえ、「辞めるべきだ」というのが噴出してくるような党内運営では、執行部責任は免れまい。


・自殺ということ

自殺を減らそう、という行政の取組みがいかに「無力なのか」ということを、現職大臣自らが身をもって示した、ということか。

取り得る手段として、「自殺という選択肢」をこれほどまでに明瞭に示した例というのは、数少ないであろう。

松岡大臣のひとなりなどを全く知らないが、ある種の「男気」のようなものを持った人物であったのかもしれない。その男気ゆえ、死をもって贖うことを選んでしまったのかもしれない。

今となっては、その死を悼む。