goo blog サービス終了のお知らせ 

いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

慶應大学の経済学者

2007年09月17日 18時16分53秒 | 教育問題
ボツネタさん経由。

Bibliographical Database of Keio Economists - 年表検索


すごーい。楽しいよ、これ。
慶應大学の歴史とか知らないし興味もなかったけれど、先日書いた河上肇関連の記事で小泉信三が登場したこともあって、読んでみた。


生きている人たちは流石に出てなかったけれど(笑)、昔の先人たちは偉かったな、と思ったよ。よく鉛筆もノートも無いような世界で、本だってそれほど多かったわけでもないのに、明治人は勉強していたんだよね。海外の書物を読み、外国人に教わり、留学し、ちょんまげと刀からおさらばしていったんだよね。そう考えると、日本人ってのは本当に凄いなと思う。




続・教育の牢獄

2007年09月12日 09時27分23秒 | 教育問題
フランス人にとって何故国防が権利なのか、という問いに対する良さそうな答えというものが思い浮かばなかったのだが、前の記事を書いていて、おぼろげながら感じるところがあったので、それについて書いておきたい。

いつもの如くかなり変な喩えであるが、具体的に考えてみた。

ある寮があるとする。周辺には似たような寮がたくさんあって、A寮、B寮、C寮…とあるとする。
君主制の国の場合にはどうなっていたかというと、国王が支配者兼所有者みたいなものなので、国王=「寮長」とすると、寮の支配者として君臨するのが寮長(国王)で、寮のメンバー(市民)は寮にいるけれど、特にこれといった権限は持っていない。こういう場合だと、寮長が独裁的な支配を可能にするし、寮長が掃除当番や食事当番を勝手に決定して、寮のメンバーにやらせることができる。寮長が立派な人物で賢明である場合には、他のメンバーがどんなに使えない人たちばかりであろうとも、寮の運営は大体上手くいく。悪い寮長だと、メンバーのバイト代の1割を上納せよ、とか酷い命令を出したりするかもしれない。嫌なら出て行けとか、逆らえば寮から追い出されるとか、そうしたことも可能になってしまう。

今、A寮で君臨していた寮長の横暴があまりにも酷い、ということで、メンバーたちは反乱を起しました。メンバーは寮長をボコボコにして寮外に追放することに成功したとしましょう。まさに市民革命みたいなものですね。追放だけでは飽き足らず、「寮長を処刑せよ!」というのがフランス革命的ですかね(コワイ)。こうなると、A寮ではこれまでの寮長に代わって別な運営方針を作らねばならない。寮長時代には、トイレ掃除は寮長の気に入らない人だけにやらせて、媚びへつらうとかご機嫌とりのウマイ人は逃れていた、という状態だったとしても、今度はそういう差別はできなくなり、「みんな平等にやるんだよ」ということになって、均等な当番表が作られるということになるであろう。平等の原理はこうして現れてくるのかもしれない。A寮は独裁(君主)制から共和制へと変わった、と。

隣のB寮の寮長はA寮の寮長が粛清されたことを知って、もの凄く焦ったことだろう。自分の支配しているB寮のメンバーがA寮の異変に気付いて、自分たちも「寮長の不当支配から解放されよう!」みたいなことを企む危険性があるからだ。B寮の寮長は手っ取り早くA寮を乗っ取るとか破壊してしまうとかをやって、これまでの「寮長」支配体制を維持しようとするわけだ。そこで、B寮の寮長はどこかの不良グループを連れてきて、「A寮をぶっ壊すとか、財宝分捕りなんかをやっちゃってくれ」と依頼する、と。

さて、A寮はこの暴れ者たちに襲撃されるわけだ。果たしてどうなってしまうであろうか?
寮の部屋に敵軍(B寮に雇われた悪者たち)が侵入してくる。で、部屋にあったパソコンとかデジカメとか、「オラオラ」とか力ずくで持っていかれる。部屋のドアも蹴破られて、滅茶苦茶に荒らされる。A寮のメンバーはみんな弱いので敵軍を怖がってばかりいて、各自の部屋に閉じこもって震えているわけだ。そうしていると、次々に部屋が襲われていく。自分のところには来ないでくれ、などと祈りながら布団をかぶっているだけなのだ……でも、ここで勇気あるものが現れるのである。
「みんなで戦えばいいんだ!戦おう!寮を守るんだ!
さあ、友よ、立ち上がろう!僕らの寮は僕らで守るんだ!!」

この呼びかけに応じるA寮のメンバーたちが集まってきた。
レアなフィギュアを持っていかれたり、大好きなゲームを奪われたり、お気に入りだった写真を破り捨てられたり、そういう恨みもあって(笑)、不良グループは怖かったけど、これ以上好き放題やらせる訳にはいかないと考えるメンバーが続々と戦闘に参加した。
「オレも戦うぜ!」
「オレはこの入り口を死守するぜ!」
こうして、A寮のメンバーたちは自発的に戦いを選択した。

ハッ、これこそが、この選択こそが、寮長から強制されたわけでもなく当番表でもなく、「戦う」ことを「自ら選ぶ」ということなのだ。「オレも戦うぜ」というのが、「国防の権利」ということなのだろうか。「オレにも戦わせろ」という自発的意思が、国防の権利なのかもしれない。

そして、「僕らの寮」というものが、「国家」(国体?)というようなものなのだ。寮は誰かのものではないけどみんなのものだ、とみんなは考えている、と。以前は寮長のものだったけど。で、「僕らの寮は僕らで守る」という考え方が、ナショナリズムっぽいとか、国民軍当然とか、国防は権利とかに通じているものなのかもしれない。


昔の寮長時代であれば、
乙:「なんでオレだけが便所掃除ばかりなんだよ」
寮長:「これは命令だからだ」
乙:「何で命令はきかなけりゃならないんだよ」
寮長:「それはオレが寮長だからだ。寮長の命令は絶対だ」
乙:「何で寮長の命令は絶対なんだよ」
寮長:「寮長が一番偉いって決まっている」
乙:「そんなこと誰が決めたんだよ」
寮長:「そ、それは、昔からそうだからだ」
乙:「昔の誰が決めたのかよ」
寮長:「…判らないが、決まってんだよ」
乙:「本当は決まってなかったんじゃね?」
寮長:「…うぐggg、オレの命令は絶対なんだYO!!」
という具合に、権威の正統性みたいなものが、あまりはっきりしてなかったのかもしれない。あるとしても、それは物語的というか、神話的世界とか、宗教的世界とか、曖昧な理由付けみたいなものかもしれない。それを共和制とするということは、物語とかではない、「寮とは何か」「”僕ら”とは誰か」「当番表の決め方」みたいなものを人工的に正統性を与える必要があった、ということかな。

教育の意味というのは、上の乙が投げかける疑問、「何でだよ」ということだろうと思う。「寮長の命令は絶対だ」ということへの根源的疑問みたいな考え方を自分できるようにせよ、というのが教育ということかと。「誰が決めたんだよ」への解答が、「法に書いてあるからだ」というものを用意したのが「共和制」ということかな。フランスの「教育と哲学が重要だ」というのは、きっとそういうことなんだろう。上の寮の例で言えば、寮長を追い出した後のA寮の運営をする場合、掃除当番や食事当番とかを決めるのに、「何らかのルール」が必要だからね。寮のメンバーの半分以上が賛成すればルールを作れる、とか決めておかないと、誰かが「オレは知らねーよ」「守りたくねーよ」とか言い出して秩序の混乱を来たすことがあるかもしれないからだ。共同生活をするのは大変なんですよ。夫婦でもルールがないために、紛争の原因となってしまったりするわけで、「寮長の命令は絶対だ」とか「法(ルール)に書いてあるからだ」とかに匹敵するような権威がないと、秩序維持に混乱を来たす可能性はあるだろう。それは「父ちゃんの決定は絶対だ」みたいなものかな、と(笑、我が家でもそこまでオーバーではないな。絶対性は持ってないけど、一番優先されると思う…)。


こうして見ると、国防が権利であっても理解できなくはないかな。「僕らの寮」の正統性は、哲学と教育から生み出されるというようなことなのであろう。




教育の牢獄

2007年09月11日 00時12分17秒 | 教育問題
この前の「最後の授業」の話を思い起こしました。日本には―いや、私にはという方が正しいかもしれない―「民主主義幻想」のようなものがあるような気がしました。自分では容易に気付けないけれども、善意の人々の恐ろしさ、みたいなものは潜んでいるのかもしれません。


琥珀色の戯言 - 滝山コミューン1974

この中で触れられている『滝山コミューン』という本の書評に呉智英さんが述べた言葉が深く心に突き刺さってきた。

『政治史についての洞察力を欠いたまま民衆権力のコンミューンという扇動的言葉に憧れた善意の人たちが作り出した教育の牢獄の記録である。』


それから、こちらの記事でも印象的な言葉が紹介されていた。

【海難記】 Wrecked on the Sea - 2007-09-09p1

『だから「共和国」では、「(市民)社会」より「国家」が優先される。そして「国家」は「ライシテ(非宗教性)」を厳格に守った上で、文化的価値を独占する。したがってドゥブレによれば、共和国にとって何より重要なのは「学校」と「哲学」であるということになる。』

フランス人を甘く見ていたよ(笑)。学校と哲学。そうか、そうなのか。
「フランス語を話せ」という強硬な主義主張みたいなものも近い考え方かな、と思った。教育にも哲学にも、フランス語という基盤がなければダメですもんね。
ドゥブレの『共和制においては、社会は学校に似ていなければならない。』とは、これまた善意の人たちの恐るべき理想主義といいますか、ナショナリスティックとか国家が第一みたいな傾向であるように思えます。共和国が民主主義の基本などではないのだ、ということを改めて感じました。


ここ最近、何故かフランスネタが多くなっておりますが、ただの偶然です。第二外国語はドイツ語でしたし(これも全然ダメダメだったけど、笑)。
<ちょっと寄り道:
語学は基本的にセンスが大事だと思う。自分は言語能力がほぼダメ。英語もダメ、ドイツ語も、フランス語も、勿論のことダメ。よく数国語もできる人がいるんだけど(Nagarazokuさんとか…)、本当に天才なんぢゃないか、と尊敬の眼差しですよ。自分の場合は、中学校の時のトラウマか何かなのかもしれない(笑、責任転嫁してみた)。あの英語とかの文字の羅列を見ると、ドイツ語でも何でも同じようなものなんだけど、何だかムズムズするというか目を閉じたくなる。電話帳を見てるのと似てるかも。なので、語学は大嫌いだった。英語が嫌いなことを「日本人なんだから日本語でいいんだよ」と理由を付けて逃げてしまい、汽車の中でモルモン教の青年なんかに会うと、日本に来てるんだから日本語で話せ、みたいに思いつつも、英語で話しかけられると赤面して言葉に詰まるだけだった。ああいう記憶が語学を嫌いにしたんだ(笑、冗談ですからね)。いずれにせよ、外国語は超苦手。>

私が小学生頃には、そんなコミューンみたいな存在は知らなかった。時期的にはきっと同じなんだけど(72~78年頃)。児童会とか生徒会とか、そんなものはあった。でも、滝山コミューンみたいな活動はなかった。全生研という存在も、いま初めて知りました。当時クラスに班はあったし、生活目標みたいなものとか班ごとに決めさせられたりしたが、そんなに厳しい制度は存在していなかった。

ああ、待てよ。ハンカチ・ちり紙の持ち物点検みたいなものはあった。当時、ポケット・ティッシュなるものは存在せず(箱ティッシュもなかった)、ちり紙を買って4つ折にして持って行っていた。その頃、「便所のちり紙」という白くない紙質の安物があって、蕎麦みたいな色合いだったような気がするが、それをランドセルに入れて持っていたら笑われてバカにされた(笑)。だって、永久に使う場面なんてないのに、ただ持ち物検査の為だけにランドセルの中に畳んで入れておくだけなんだし。でも、それ以後、恥ずかしかったので「白いちり紙」を入れておくことにしたのだった。
<ちょっと寄り道:
ちり紙は1000枚とか紐で縛って売られていて(古新聞を出す時みたいな紙束って感じ)、一番上には何故か「亀」や「鶴」とか「梅の花」なんかが描かれた少し厚手の紙が置かれていたものだった。ちり紙ブランドを消費者に覚えてもらう為に、ああいう絵にしてあったのであろう、きっと。現代ではティッシュをタダで配ってくれて、まことに有り難いことですけれども、当時にはちり紙さえも「高級品」という区分みたいなものがあったのです。>

こうした点検などがあっても、点数化したり懲罰を与えられたりということはなかったように思う。私の学校では児童会とか生徒会といった呼称であったが、別な地域では何故か「書記局」という呼び名であることを知り、驚いた。子どもの活動なのに、「書記局」という呼称の意味がまるで判らないのではないかと思う。しかもそれが未だに続いているというのも、アレだな、と。共産主義体制じゃないんだから、とは思う。
因みに、私の生活態度は悪く、いつもゲンコツなんかを頂戴していたのだった(笑)。忘れ物とか、廊下を走るとか、教室で丸めた紙を箒で打つのをやっていたとか、何ということはなしに注意されていたと思う。けれど、学校は楽しくて毎朝一番乗りを目指していたのだった(笑)。目的があったからだ。とりあえず朝から遊ぶ為だけに友だちと待ち合わせたりして早く行っていた(大体7時半くらいまでに着く)。軍人将棋やトランプなどを朝にやっていたのだ。先生に見つかれば怒られることになったかもしれないが、一応大丈夫だったような気がする。ひたすら遊べるということだけを理由にして、喜び勇んで通っていた。休み時間には、体育館の天井から下がっていたロープのてっぺんまでいかに早く登れるか競争したり、「手つなぎ鬼」で最後の一人になるま逃げ切るとか、軟球で野球をしたりとか、高いところから飛び降りる勇気を示すとか、グラウンドの遊具の垂直棒をいかに早く登るかとか、鉄棒で遠くまで飛ぶ遊びをしたりとか、落とし穴を掘ったりとか(笑)、色々とやっていた。
中学の時には「教科書を忘れると正座」とか、班の連帯責任とかで「一人忘れ物をすると全員正座」とか、しまいには「学級全員正座」ということがあったが、あれはちょっとオカシイと思った。体罰は勿論アリアリで、ビンタを食らっていた男子生徒もいたな。あれは行き過ぎではないかと思ってたけど。当時は、それでも仕方がないのだと思っていた。


ああ、そういえば小学校の時に学級会はあったよ。議題といっても大したものはなかったと思うけど、でも、何か特定の問題について話すことはあったかもしれない。そういう時には、優等生ぶる女子とかに「○○君は~をして騒いだりしています」みたいに言うヤツがいて、心の中では「チッ」と思っていたかも(笑)。告げ口してんじゃねーよ、とか。まあ、私の場合にはどの道悪ガキであったことは明白だったので、大した痛痒を感じたりはしなかったと思う。
あと、「~するのは止めて下さい」みたいな決めセリフとかもあったかも。小学生男子だと女子には口では勝てないので、大抵は凹まされる。大人でもそうかもしれんけど(笑)。これって、ネットの「匿名でコメントを書くのは止めてください」みたいなのと、あまり変わらないかもしれんね。
学級会で、ある人だけ徹底的に攻撃されるというのはなかったと思うけど、係の人を決める時にワザと「○○さんがいいと思います」みたいな出来レースを仕組む連中とかはいたかもしれない。確か私もそれに加担したこともあったような気がする。「イヤだよ~」とか本人が言っていても、「ハイ、決まり」みたいに全員が押し付けるんだよね。よく考えると、酷い話ではあるな。特に、男女各1名選出とかになると、そういうわざとらしさみたいな意志が働いていたのは感じたことがあった。当てられた人は可哀想とは思ったが、だからといって、私が何かをしようとは思っていなかった。結局、多数派に加担してしまうのだ。


それにしても、コミューンは恐ろしい。



人間力とlife hack ~その2

2007年08月04日 17時27分03秒 | 教育問題
4)人間力とは

ここで唐突に話が変わりますが、いきなり「人間力」です(笑)。
政府が打ち出した「人間力戦略」というのは、次のようなものでした。

人間力戦略ビジョン新しい時代を切り拓くたくましい日本人の育成~画一から自立と創造へ~

かなり古い話ですけれども、教育関連施策で「こういう方向でやっていってはどうか」ということで、文部科学省が取りまとめていったのですね。

でも、話の発端というか、流れ的には経済財政諮問会議から出されたものでしたので、内閣府も噛んでいくことになったのですね。何かのスローガンでもなければ、文部科学省のまとめを見ても殆ど理解されにくい話で、そういう意味においては「人間力(戦略)」という単純なフレーズは効果的であったと思われます。

人間力の経過>「人間力」について

こちらが内閣府で進めた研究会>人間力戦略研究会報告書

要するに、人間力の根本的な話というのは、教育関連施策に「ワン・フレーズ」を与えたものなのであり、教育について行政が積極的に関与すべきではないという考え方であるならば、これら施策については「全て止めるべき」というご意見が出されてもいいでしょう。行政は金だけ配分しておけばよい、ということであれば、それはそれで一つの意見でしょうし。文部科学省の無駄な官僚の頭数を大幅に削減可能になるのですし、無駄な天下り先も大幅に殲滅できそうなので、検討に値しますね。天下ってこられる受け入れ側―例えば大学とか―では、大変な迷惑を蒙ってしまうかもしれませんが(笑)。


5)人間力批判

具体的な例として、ご紹介しておきたいと思います。

asahicom:朝日新聞就職・転職ニュース


 全体として世の中が進んでいる方向は、ますます混沌(こんとん)としてきています。大人の意識に刷り込まれている「近代社会」とは、たとえば官僚制組織のように役割や指揮命令系統がきちんと決まっていて、標準的であることや集団への適応が重んじられる状況でしたが、現在はかつてよりもすべての物事の偶発性が高まり、自律性や柔軟性が求められ、かつ競争が激化した「ポスト近代」状況に突入しているのです。

 世の中が不透明化し、煙が渦を巻きながら立ち込めているような状況で、個人はどうやって対処していけばいいのか。とても大変な課題です。その中で、教育界や財界、政府などがそれぞれ、「人間力」とか「社会人基礎力」とか「就職基礎力」を身に着けさえすれば何とかなるといった言説をせっせと生み出している。一般の若い人にとっては「そんなこと言われても」と戸惑うような漠とした無責任な要請を、権力や諸資源を手にした年長世代が投げかけている。

 ほんの一握りの起業家を目指すような若者は、確かに主体的で創造的な個人でしょう。もちろんそういう人はいるけれど、そのイメージをすべての若者に当てはめて働く意欲を喚起・動員するという発想は、成功や失敗の責任を個人に転嫁しているだけで、何の解決策も提示していない。せめて、周囲から、完璧な強い人間になれと若者を追い立てることはやめて欲しいですね。




この続きも読んでみると、本田先生の言わんとしていることは判らないではないです。しかし、人間力と聞くだけで拒絶反応を示すというか、行政側の出す「人間力」や「社会人基礎力」や「就職基礎力」(これは聞いたことがなかった、笑)のようなフレーズが気に入らない、というだけで、即座に否定していいものなのかどうか、ということは思います。人間力を批判したところで、「就職できる若者が増える」わけではないです。年長者たちに若年層に対する誤解があるとしても、本人を目の前にした時に「この若者はこんな素晴らしいところがありますよ、立派に頑張っていますよ」ということくらいは感じ取れるし、現実に大半の若者を雇って仕事を学ばせているのは年長者なのですから。

何かのスキルを習得させるとしても、例えばRPGのスタート時点での装備みたいなもので、「布の服」とか「短剣」を装備させる程度でしかないように思えます。「甲冑」を装備していたなら採用されるが、「布の服」だと採用されない、という単純なものではないのではないのかな、と。
もっとキャラクター全体を見ると思うし、「鉄の胸当て」だと採用だけど、「粗末なローブ」じゃ不採用、ということにはならないでしょう。そういう意味では、人間力というのは、せめて何か装備するように、ということを最低限求めるものであると言えるかもしれませんね(笑)。
これはまた別な機会に書いてみたいと思います。


6)「life hack」としての基礎力

人間力や社会人基礎力といった言葉を拒絶したければ、別な用語でもいいと思います。とりあえず、「基礎力」とだけ呼ぶことにします。

採用側が見る指標の組み合わせの標準的なものが、この基礎力ということです。「life hack」としては、人事担当者における「新人採用に当たってチェックすべき(見るべき)○つのポイント」というようなことになりますでしょうか。立場を変えて、採用される側になれば「就職するに当たって達成するべき○つの心得」みたいなもの、ということになるでしょうか。これの何がマズイのか、どこが不満なのか、私にはよく判らないのですね。こうした標準化やlife hackそのものが許せないとか、達成するべき心得を達成できない人間を排除するものだとか、型にはめるのが良くないんだとか、全てを達成できているような完璧な人間なんて存在し得ないんだとか、そういうことなのでしょうか。

まあ、その気持ちは理解できますし、仮に私自身も多分「達成できない」と思えますので、やめて欲しいと願わないでもありません。しかし、これはあくまで評価のポイントを羅列したものに過ぎないのだから、最終的にはオレを見てくれ、ということでいいのではないでしょうか。そのように考えることさえも、苦痛を強いられるというのでしょうか。勿論、こんな当てにはならないlife hackを信じる必要もないし、もっと「市場全体の環境」さえ良くできるなら個別銘柄の心配などする必要がない、ということあるでしょう。

そうであっても、インデックス(=若年層の大きな集団)を買うわけではないので、採用側は個別銘柄を購入(=個々の若者を見て採用)せねばならないのですから、ハックを利用してみたいというのを止めさせるのも大きなお世話でしょう。インデックスが上昇する市場環境が整っていたとしても、誰も値下がり株を掴みたくはないわけですから。値上がりしていく成長株をどうにかして見つけ出したい、これだけを選びたいと採用側は願っているわけですから。

株式市場においても、基本的な部分では規制というものがあるわけです。全くの野放図でよい、ということにはなっていませんね。どんな企業の株でも上場できるわけではありません。少なくとも、「上場基準」は達成されていないと、上場できないのです。この上場基準とは、全て理論的に決定できるものなのでしょうか?ルールとして存在しているだけなのであれば、各ファンダメンタルズの指標が一定以上に到達している、という意味しか持っていないのではないかと思えます。

行政や財界が色々と言っているのは、「上場基準が十分達成されていないんじゃないか」とか、「上場基準が甘くなってきているんじゃないだろうか」といったことなんだろうと思うのですよ。別に「若者はみんなロクでもないので、お仕置きよ!」ということを言っているのではない、と思うのです。上場基準に達しない銘柄(個人)が多いようであるなら、もっとたくさんの銘柄で到達するように教育施策を考えた方がいい、と言っているのだろう思います。銘柄を各種指標(学力、ナントカ能力、ホニャララ能力、…)に沿って評価してみると、少なくない銘柄において「落ちている部分がある」と考えた、ということだろうと思います。

企業においても、売上高の増加率が倍々で増えてる会社もあれば、着実かもしれないが数%程度でしか増加していない会社もあるだろうし、借入金比率が高い会社と借入ゼロの会社とかがあります。そういう違いというものはごく普通にあるし、指標だけで見れば優劣がついてしまうのはしょうがないのです。でも、それが会社の評価の全てではないし、長い年月の中で予想以上に成長していく会社も出てくるし、それは完全に判るわけではないのです。誰にも判らないからこそ、何かの役立ちそうな指標を見てみましょう、とか、みんなの知恵を活かして有効な「life hack」を教えて欲しい、とか、その程度でしかできないのですから。



そういうわけで、人間力とか基礎力とかが「大きなお世話なんだよ!余計なことだ」とか、そんなに批判されるべきものとも思っていないです。何かの指標とか上場基準とかそういったものを絶対に利用しない、と宣言するような人々なのであれば、全てに反対することも理解できます。教育分野について行政が介入するべきではない、ということであれば、教育施策については放任主義的というか、行政の役割を縮小していくような仕組みを整えることを提案すべきでしょう。まずは、教育・労働関連行政に存在する無駄な官僚組織とそれに付随する寄生組織の抹消を推進していくことが第一歩かと思います。



人間力とlife hack ~その1

2007年08月04日 17時02分44秒 | 教育問題
最近の流行りものに便乗して、書いてみたいと思います(笑)。乗り切れていないことは確実ですけれども。そこら辺は、既に十分ご理解されていると思いますが、改めてお断りしておきます。


1)就職戦線の異変?

今年の就職戦線はチョー「売り手市場」と言われているらしい。

京都新聞|経済フォローアップ

(一部引用)

来春の入社を目指す大学生の就職戦線が昨年以上に早まっている。大量退職時代を迎え、大手企業の採用意欲はおう盛で学生の「売り手市場」の傾向はさらに強まり、4月上旬の内定が続出している。その一方で企業の「厳選多数採用」の傾向は今年も続き、内定が集中する学生と内定がなかなかとれない学生の二極化がさらに進みそうだ。
立命館大理工学部4年の徳永亮太郎さん(21)は、4月上旬に2社の内定をもらった。最終面接段階も何社かあり、「就職難を感じなかった。すんなりといきすぎて驚いている」と話す。

(中略)

学生にとっては願ってもない売り手市場だが、企業にとっては悩ましい。地元企業は今年の傾向を「昨年よりもさらに売り手市場。学生に余裕があり、志望度の高い企業を集中的に研究している」(オムロン)と分析。激しさを増す人材獲得合戦に「すでに他社の内定を持って面接に来る学生が多く、入社の意思確認が重要」(京都銀行)という。また「学生が大手ばかり目指して来てくれない。就職氷河期の方が優秀な学生を採用できた」(京都市内の中小企業)との声もあり、新卒確保に積極的に取り組む企業も出てきた。

(中略)

だが、これだけの売り手市場でも「企業は採用条件のハードルは下げず、バブル期のような数合わせの採用はしていない」(京都産業大進路センター)。優秀な学生に内定が集中し、内定がとれない学生は夏を過ぎても就職活動に取り組む長期化現象が今年は一層進みそうだ。




この記事を信じるならば、すんなり複数からの内定をもらっている人は少なくないようですね。一方では、企業が採用条件のハードルを下げないということから、内定に至らない学生はいつまでも残ってしまう、ということが見られそうということです。

一部には「バブル気分」などと揶揄される売り手市場を満喫する学生たちがいるのかもしれません。就職氷河期とか言われていた「陥溺の世代」との落差はかなり大きいですね。

こんなの許せないって感じがコレ>はてなブックマーク - 覆面座談会業界別 一流女子大生の就活事情 月刊チャージャー - Yahoo JAPAN PR企画

これはちょっと話の中身に問題があるのかもしれませんが、現実と大きく外れているとも言えないかもしれませんね。

こんな話も実際あるようですから>2007年問題が引き起こした“超・売り手市場” SMBCコンサルティング


何社も内定を貰っている学生というのは、採用側からの「人気が高い」=「価格上昇」、ということになってしまうのはしょうがないわけです。株も同じで、人気銘柄というのは価格が上昇してしまうものなのです。逆に不人気銘柄であると価格は下がるわけですから、いかに本人が「自分の価格はもっと高いはずだ」と思っていても、誰も買ってくれなければ値段が下がってしまうのはやむを得ないのです。若者に何か知恵を付けるとか、就職テクニックなどでどうにかすると、値段が下がらないようになるのかというと、これは中々難しいのかも。

企業であれば、元々のファンダメンタルズが悪ければ評価が下がることは多いでしょうし、株価も下がることになるでしょう。採用される側(若者)にしても、ファンダメンタルズが良くなるようにするしかないように思えます。もっとも、株価であると市場環境というのが重要で、どんなに優良企業であっても市場が全体的に落ち込んでいる時には、価格が下がってしまうのを中々回避できないでしょうからね。02~03年頃のような日本市場の状況ということです。それと同じで、就職事情も個々の若者云々の問題ではなく、市場全体を落ち込まないように(=政府の経済運営)していくことは大事ですね。


2)個人の「ファンダメンタルズ」とは?

ところで、このファンダメンタルズというのは一体何なのか?
学力とか、特定のスキルとか、競争力とか、要領の良さとか、コミュニケーション能力とか、見映えとか、そういう色々なものなのかもしれません。この指標というものは未だ決まっていないかもしれず、多くは経験的に判断されるものとして捉えられているように思えます。これらの指標などから、おおよその選別は行われているでありましょうが、個々の若者が正確に評価されるということは難しいでしょう。そんな理論は未だに判っていないからでしょう。

企業の場合にも、ファンダメンタルズを重視して評価するのは当たり前ですが、各種指標が株価決定の確定的要素になるとも限らず、業績が良くても不人気の企業では株価は低いでしょう。逆に「こんな業績で何故?」と思えるような企業であっても(将来の)期待込みとか、キャラクター(主に経営者の?)的に好かれるとか、ブランド価値とか、連結対象の恩恵(人間であれば人的ネットワークとか?)などによって、実際のファンダメンタルズから乖離して高い株価となっている企業も多数存在するのです。

つまりは、株を買うのも、新人を採用するのも、人間が判断して決めるという仕組みになっているのであり、更に言えば「人気がある」というところに行き着くのではないかと思えます。人気を左右する要因には、様々なものがあると思いますが、企業利益とか試験結果のような数値的に判断できるものもあれば、あくまで感覚的なものでしかない将来期待やキャラクターやネットワーク価値などがあります。数字で計れない部分というものがいくらでも混入してくるので、株価にも偏りが生じますし、採用側判断にも同じように偏りがあるのは回避し難いのではないかと思えます。


3)個人のファンダメンタルズを見るのは「life hack」的なもの

企業業績とか株価の判断の材料としては、これまでに多くの指標が挙げられています。例えば増益率だの、PERだの、ROAだの、益回りだの、多数あります。通常はこれら全ての指標で完璧な企業というのはないので、どれかに重きを置いて比較検討してどの企業の株を買うのか決めますよね。新人採用の場合にしても、学力、コミュニケーション能力、語学力、コンピュータ能力、等々、指標を組み合わせて判断するものと思います。こうした指標の組み合わせパターンというのは、どれがいいのかということは、誰にも正確に判らないわけです。

それは株価の評価をする時に、最適解の決定版が存在しないのと同じです。多くの人事担当者たちは、標準的な指標の組み合わせパターンと経験則との複合で対処するしか方法がない、ということです。どのような指標パターンが良いか或いは大事か、ということをそれぞれの企業で考えてみるものの、みんなも正解を知らない(正解があるのかどうかも判らない)ので、大体良さそうな所のマネをしたりするしかなく、そうすると、今のようにコミュニケーション能力も大事だよね、ということになるのだろうと思います。

こうした重視するべき指標とか、組み合わせる指標パターンといったものは、確実な理論というよりも「みんなの知恵を使おうね」という経験則的なものにならざるを得ず、流行りの「life hack」ということに近いのだろうな、ということです。「~を上手に使う5つの法則」とか「~を見つけ出すのに役立つ8つの法則」とか「~をやる前に知っておくべき10のこと」とか、これに類するのが新人採用の時の評価法ではないでしょうか。



GRIPSの博士論文の成果はコレ

2007年06月07日 11時52分19秒 | 教育問題
政策研究大学院大学 - GRIPS

H15年 1件
H16年 0件
H17年 4件
H18年 3件
H19年 4件

大変立派な大学院教育です。さすがですね、GRIPS。
政策研究『大学院大学』が全精力を投入した結果が、この数字ですか。
これまで合わせて「12件」ですか。
博士一人当たりの年平均税金投入額を教えてもらえれば有り難いですな。GRIPSにおいては経済学関連の大変優秀な教授・助教授は多数揃っておられますから、どこが生産性向上に繋がっているのか、即座に回答できることでありましょう。
ですよね?>GRIPS教授・助教授どの

参考記事:

「GRIPS」の生産性はどうなっているのか?

続・「GRIPS」の生産性はどうなっているのか?


GRIPSのような大学にこそ、「競争するように仕向ける政策」が必要なのではないですか?(笑)
『大学院大学』と銘打っていながら、こんなに論文数が少ない正当な理由というのが一体何なのか全く判りませんね。何なら、経済学的に「GRIPSのような大学院大学が生き延びられる理由」というのを是非ともご教授願いたいです。

ひょっとして税金のおかげでしょうか?
一段階思考しか持たない素人のトンデモ理論で申し訳ないですが、直ぐに思いつくので。違うというなら、それはそれでいいので、正当な理由というのを出してもらえればと。


実際に全国の大学で比較してみてはいかがでしょうか。何かの指標、そうだな、例えば「教官人数/博士論文数」といった数字を出して、全部の大学院大学と比較してみて下さいな。こんなの簡単だよね?論文1本に対して教官数が多い大学というのは、少ない大学に比べて無駄な頭数が多いと考えられるのでは?理系と違うとか、そういったご意見が出るかもしれないから、同じ分野での比較でもいいですよ。政治・経済・法学・教育・社会等の所謂文系的分野で比べてみたらいかがか。

まあ、何でもいいけどGRIPSは何の成果があったのか早く教えてもらいたいね。
例の比較地方自治研究センターの成果とか。何でいつまで経っても公表せんの?毎年研究くらいやっているんだろうし、何かペーパーらしきものがあるなら出せばいいのに。これじゃ全然「アップ・ツー・デート」じゃないワナ(笑)。

公表できるロクな成果もないにも関わらず、偉そうな肩書きとか能書き垂れるのだけは一丁前ってのが一番…以下自粛



高野連はオカシイよ

2007年05月02日 23時04分53秒 | 教育問題
特待生制度は判明した分で334校、7千人以上の規模であった模様。

この前にも書いたが(奨学金や特待生制度は悪いことなのか?)、この制度そのものが「諸悪の根源」ではないであろう。夏の甲子園に出場できるのは、毎年900人くらいで、重複出場がないとして3年間で2700人くらいだ。春の選抜で1700人くらいなので、合計しても4400人にしかならない。つまり、奨学金を受けている生徒の4割くらいは出場できない。春夏とか、夏連続とか重複出場者がかなりいるから、制度利用者の半分かそれ以下の生徒しか出場できないのだ。


高野連は貧乏人のチャンスを潰すことが正しいことだと思っているらしい。貧乏人は野球を諦めろ、ということだ。


金で生徒を集めるのが悪いって?
だったら、アメリカの名門大学とか、みんな「あくどいことをやっている」ってことだね。「野球留学」がそんなに悪いことなのか?他のスポーツ選手だって、競技の指導者やトレーニング環境とか、色々な面を考慮して決めてるじゃないか。勉強できる人だって、「いい学校」に入ろうとあちこち行ってるじゃないか。それと何が違うのだ?受験に有利な進学校に、「堂々と」選んで行ってるじゃないか。


高野連のトンカチ頭は、どうかしてる。
トヨタが作った中高一貫だったかの私立学校があったと思うが、あれだって「あちこち」から集まってるんじゃないの?「勉学や人間形成や指導者やその他モロモロ」の条件を見て、行きたいと思う人が集まってくるんでしょ?高野連が盛んに批判している「野球留学」みたいなものと何が違うって言うんだ?

憧れの先生、監督、選手、そういう人たちのいる学校に行きたい、と願う生徒がいても不思議じゃないし、そこに奨学金制度があれば「貧乏人」であっても行けるチャンスが生まれるじゃないか。


もしも奨学制度があるから入学してきた「野球部員」がいて、入学前の約束として「授業料の免除があるからその高校に行ける」と思っていたのに、入学した後になってから、「やっぱり払ってくれ」なんていうのは、それこそ契約違反ということにはなりませんか?債務不履行なんじゃないの?高校が「授業料の全部、又は一部」を給付することは「不法原因給付」ということにはならないでしょ?きっと。入学予定の生徒が、高校野球では「特待制度や奨学金を受けた人は野球部員になれない」とか「対外試合や公式試合に出場できない」と正しく知っていたのにその制度を利用しようとした、というような特殊な場合じゃなけりゃ、生徒側に問題があったとは思われない。そうであるなら学校側は契約違反なのだから、その損害を弁償しなけりゃならないんじゃないの?すると、結局「金品を受取った」ということになってしまうのではないですか?

そういうのをどうするんだよ、高野連は。代わりに払ってくれるのか?

顧問弁護士とかにきちんと確かめるべきでは。
場合によっては、高野連を提訴することがあってもいいと思うが、どうなんだろうか。私立学校の団体とかで考えた方がいいと思う。野球憲章というのは、法律じゃないから、一種の慣習のようなものではないのでしょうか?その慣習にどれほどの正当性があるか、強制力が認められるのか、そこら辺は法的な問題でしょうから私には全然判りませんが、生徒側が余りに可哀想です。だって、過失は何もないんですもん。それを「何ら悪い事はしていない」のに、学校を信じて入学してきたら「試合に出られなくなりました」って、それはオカシイですよ。


高野連の役員たちは、自分たちが何か絶対的権力者のように振舞っているが、他団体の意見聴取もしないとかでいいのか?高野連の上部団体は何をやっているんだ?日本野球連盟みたいなのはなかった?そういうところは、何か言ってやれよ。8千人くらいの高校生が「お先真っ暗」のどん底の叩き落とされることになるかもしれないんだぞ?日本の野球を殺す気か?早急に何とかするべきだ。



奨学金や特待生制度は悪いことなのか?

2007年04月23日 11時35分38秒 | 教育問題
これまで奨学金制度などを積極的に推奨してきた私としては、誠に残念です。
野球憲章の歴史的経緯などをよく知らないのですが、日本の制度上、私立のお金がある学校が「金にものをいわせて有力選手を集めてくる」ことが悪い、ということなんでしょうか?

機会を奪っているのは、憲章の方なのではありませんか?
這い上がれるチャレンジの芽を摘むことが、そんなに良いことなんでしょうか?
成功はいけないことなんでしょうか?


ダル母校・東北高が春の予選出場辞退、特待生問題か(読売新聞) - goo ニュース

(一部引用)

前山・法人総務部長によると、同校には中学時代の実績や学力をもとに学費が免除などされる「文化・スポーツ特待生制度」がある。音楽や野球、サッカー、陸上などで特に優れ、中学校長からの推薦を受けた生徒が対象で、4ランクに分け、授業料などが減免される。例年、この特待生制度で野球部に一学年20人前後入学するという。




何故、野球だけがダメなのでしょうか?
奨学金とか、授業料や入学金減免というのは、「持たざる者」であっても成功できる機会を持てる、ということなんですよ。そういう教育機会を与えられるチャンスなのですよ(参考記事)。なのに、どうしてその機会を奪うのでしょうか?


先日の西武球団の資金提供問題などでプロ野球の「闇」みたいなことになってしまいましたが、隠すからいけないだけで、完全オープンにして企業が資金を供出するのは、将来への投資と思ってやった方がいいと思えます。これは、プロ野球の問題なので、ちょっと外れますので後で考えたいと思いますが、どう考えても「高校野球」の生徒が「奨学金を受けたから」「特待生だから」ということを理由にして、部活動を制限するのはオカシイのではないかと思います。


アメリカの貧困層がどうやって高校や大学へ行く金をもらうかと言えば、バスケや野球やアメフトなんかで「成功」を収めることです。絶対的貧困の中から、這い上がれるチャンスを掴むこと、その原動力はこうした奨学金制度であるように思えます。そして、もっと何が重要かといえば、こうした成功者が他の貧困層のロールモデルとなり得ることであろうと思います。例えば貧しい黒人たちは犯罪者になっていくより、プロ選手として成功したヒーローを目指すことによって、「頑張ればドリームを掴めるんだ」ということを信じられるのだろうと思います。大学を出ればたとえプロ選手になれなかったとしても、別な「ディーセントな仕事」に就くことができます。大卒ですから。これが底辺からの脱出チャンスなのです。

日本では状況が違う、ということは確かにあると思います。しかし、(岡崎氏の嫌いな)「悪しき平等主義」のようなものが、残されているのかと思うと、とても残念です。よく考えてみてください。貧しい家庭に生まれて、学校に行く費用以外に、用具だの、合宿費用だの、遠征費だの、その他モロモロ…を全部家庭毎で自己負担しなさい、ということなんですよ?それは「金がある人」以外には、スポーツなんてやるな、金のかかる活動は諦めろ、というのと同じではありませんか。所詮お遊びなんだからやるな、とでも言うのでしょうか?金に余裕のある学校が、「教育」と「部活動」をできるチャンスを与えてくれるなら、それは有り難いことではありませんか。公立学校とかであれば一律に決められているから、中々そういう自由はないでしょうけれども、「全部自力で活動費用を賄える」という人たち以外にも開かれたチャンスがあることの方がいいですよ。それとも、そういうお金のない家庭の部活動費用を、誰かが出してくれるのですか?「平等じゃなけりゃダメなんだ」とか主張する人たちは、払えない家庭の人たちの分を学校に代わって費用を出してあげて下さい。


ピアノだって、フィギュア・スケートだって、水泳だって、ゴルフだって、スキーだって、一流になろうと思ったら多額の費用がかかるのですよ。資金提供を完全に止めれば、「金のないヤツラは結局何もできないのさ。悔しかったら全部自力でやってみろ」ということと同じではないですか。能力がある者のチャンスを奪うことがそんなに良いことなのですか?

勉強ができると奨学金や特待生制度を受けられるのに、音楽やスポーツができても同じように受けられないとか受けてはいけないとか、どうして言われなければならないのでしょうか?これまでにも何度も書いてきたけれども、学業成績がいいことと、他の運動能力とか音楽や芸術や伝統芸能や料理や色々な技量があることと、何が違うというのでしょう?どれに資金提供をするかは、私立学校の自由でいいではありませんか。バレーボールに力を入れてる学校もあれば、駅伝かもしれないし、吹奏楽かもしれないし、化学実験部かもしれないし(笑、これはどうかな?無いかも)、要するに何だっていいではありませんか。そういう能力を持つ者たちに機会が与えられ、「野球」という能力を持つ者たちだけの機会を奪うことがそんなに大事なことなんですか?それが正当であるとは、私には到底思われません。


・プロ野球界の資金のこと

高校生や大学生に対する資金提供が裏金になってしまうとこれは確かに問題だろうと思うし、何らかのルール作りは必要だと思うが、企業側からの資金提供そのものが悪だとは思えません。学校に行くのに、費用はかかるわけですし。資金を出せる企業があるのであれば、それはきちんとした表向きの奨学金とかの形で提供するべきでしょうね。協賛企業というような形で資金を一括で1つの団体にプールして、そこから与えられるようにするといった何かの制度がある方がいいと思いますが、よく仕組みを考えてもらって(他の奨学制度などとの兼ね合いとか)、できるだけ多くの学生にチャンスが与えられる方向でやってもらえればと思います。たとえ自分の球団に来なくてライバルチームに入ったとしても、結果としてプロ野球の中にスターが多く誕生していくことが最終的には野球界全体の利益に繋がっていくのですし。たとえば奨学金を受けた選手をたくさん獲得した球団はその金額に比例して拠出額を上乗せするとか、そういうことでいいではないでしょうか。所得比例部分(球団収入とか拠出能力に応じて払う部分)と、獲得比例部分(奨学金を受けた選手の獲得数に比例して払う部分)みたいにして、プロ野球界全体で裾野を広げてゆくことを考えた方がいいのでは、と思います。アマ側にしても、文句を言うばかりではなく、「野球」という競技を通じて(社会的に)何を達成していけるか、どうすればもっと良く運営できるか、プロ側と協力していくことがあってもいいかな、と思います。

長島、王の時代から、松井、イチロー、松坂という時代になってきましたが、やはりロールモデルとしての存在は大きいのではないかと思います。成功者を生み出せる「システム」としての資金提供制度が、色々な形で存在することが大事なのではないかと思います。それが「持たざる者」にとって、大きな飛躍のチャンスなのですから。



続・「GRIPS」の生産性はどうなっているのか?

2007年04月19日 14時38分43秒 | 教育問題
「生産性を上げろ」という大号令の下、国の支出を減らすのと企業の人件費を削減したいという方向に合致しているのが、社会保障費抑制策である。生産性を上げるとはどういうことか、ちょっと考えてみる。この前コメントでも触れましたし。


1)製造業で考えてみる

また、簡単な例で考えることにする。
「ネジS」を作る仕事があるとする。Aさんは単位時間当たり10個、Bさんは同じく15個作れるものとする。AさんよりもBさんの方が生産性は高く、賃金としては成果に応じて払うとすればおおよそ次のようになるかな。

・同じ勤務時間であると、Aさんに10万円払うなら、Bさんに15万円払う
・同一納期まで同じ個数(120個)を作るのであれば同じ賃金とし、Aさんは12単位時間、Bさんは8単位時間勤務する

ここで、生産性向上というのは、例えば単位時間当たりAさんが15個、Bさんが20個作れるようになる、というようなことである。この場合、支払賃金を少し増やしても良いが(現実世界ではこれまであまり増やされなかっただろう)、生産個数が増加した分に応じて企業利益も増加する、ということである。こうした考え方は、昔の「工場労働者」的考え方なのではないかと思う。更に生産性向上を図る為に、AさんやBさんよりも多く生産できる全自動機械を開発し、単位時間当たり100個作れるようにする、ということである。これによって生産性は飛躍的に向上する。AさんもBさんも不要となって、リストラされ失業者となる。ネジSは生産個数が大幅に増やせるし、人件費削減ができるので利益が多くなるのだが、これも次第に行き詰まることになるのである。

実際のビジネスでは、ネジSの生産によって利益があるのであれば、新規参入者が現れて競合してくるので、ネジSの単価が下がっていき、生産個数が増加したとしても企業利益そのものが増加するとは限らなくなる。生産性向上を実現しAさんやBさんをリストラして全自動機械で生産したとしても、競争に敗れれば撤退せざるを得なくなるのである。中国や東南アジア諸国などの工場で生産して輸入した方が安上がり、ということが起こってしまうからだ。そこで仕方なく、もっと別な特殊技術を用いた「ネジS’」を開発してその製造に特化する、というようなことを目指すしかないのである。競合企業が真似できないような製品を製造して、ネジS市場は諦めるけれども、ネジS’で利益を挙げていく、ということになる。ネジSに比べネジS’は単価も高く、利益率も高い、というようなことを達成せよ、というのが、生産性向上ということだ。ネジS’の生産能力を「これまでの100個から200個達成」みたいに、無限に努力し続けないとならないのが「製造業」なのである。生産個数が上がるように努力をしても、数が増えるので価格が徐々に下がっていき、利益が減少していったりするのが皮肉なのであるが(笑)。半導体、液晶、デジカメ、レコーダー、記憶媒体、などの製品はそういう運命から逃れられない。


2)サービスではどうなのか

これと同じような考え方をサービスに適用することについて、当然と思っている経済学者が存在しているのだろうと思うのだが、それは本当に正しいのであろうか?私自身が経済学理論を正確に知らないから、そのような疑問を抱いてしまうのかもしれないが。

ここで、宿泊業について考えてみる。
旅館Cがあって、客を最大20人宿泊させられるとする。生産性向上というのは、例えば同じ従業員数のままでありながら、部屋を改造して宿泊客を25人に増やすとか、これまで風呂が無かったけれど大浴場を設置して付加価値を高めるとか、そういうことを達成する、ということだろうか。こういった生産性向上の為の何かを続けないとすれば、旅館の料金は不変なのであろうか?最初に1泊3000円として、客室増加の数量効果があって単価が同じ3000円のままでも売上は増加し、風呂設置で料金を4000円に値上げして売上を伸ばす、ということになる。さて、その後、この旅館Cが特に部屋を増やすでもなく、風呂を新しくするでもないと、料金を上げられないのか?客が来る限り値上げすることは可能であるように思われるが、どうだろうか。古びた旅館が、かつてのままの料金で営業していることなど想定できないのだが、実際どうなのだろう。世間相場が5000円になっているのであれば、それくらい値上げしていても不思議ではないように思える。それともプライスレスの女将の「笑顔」で付加価値を高めたとか?(笑)

豪華な夕食を出すとか、何か特徴を生み出して行ったとしても、サービスの「本質」は殆ど変化などないのである。要するに「泊まる」ということであり、その生産性向上など連続で達成していくことなど難しいとしか思えないのである。ホテルや旅館の料金は上がっていっているのであり(必ずしも全部ではないし、大幅に下がっている部分もあるだろうが)、その大半は人的サービスの価格が上昇するからとしか思えないのである。ホテルのフロント係が、昔に比べて極端に生産性をアップすることなど「できない」のである(笑)。宿帳記入や会計業務などを機械化して速度をアップしたとしても、それで2倍とか3倍の価値を生み出したりはできない。しかし、ホテルマンの賃金は30年前とか50年前に比べれば確実に数倍とかに増えたであろうし、売上も当然増えているに決まっている。ホテルの提供しているサービスの基本はあまり大きく変わっていないのに、である。

歴史ある有名ホテルのDでは、過去50年間建物は同じ作りのままで、部屋数を増やしたりしてはいない。数量増加による売上増効果はない、ということである。風呂も昔から付いていたし、特別変化したサービスがこれといってあるわけではない。各種ルームサービス、マッサージなどの付加的サービスはその為の別途料金を取るし、部屋にテレビを付けたといってもそのサービス価値は極めて安いものでしかない。ラブホテル(今はこう呼ばないのでしたか?)の、ジャグジー風呂、テレビやカラオケ設備の方がサービス価値は多いくらいだ。こうした場合、有名ホテルDの宿泊料金はどうなるのだろうか?昔1万円、今5万円だとすると、数倍もの生産性向上が達成されたと言えるのであろうか?ホテルマンの生産性が、ネジ生産で見たような全自動機械で5倍の100個作れるようになったのと同じく、5倍もの「宿泊」が生産できるようなスーパーマンになったのか?これは違うとしか思えないのだが。宿泊費が1万円のままであれば、ホテルマンの賃金は値上げできないから、他の職業の賃金に比べて極端に安くなって、成り手がいなくなる。「歴史ある有名ホテル」の営業を維持できなくなる。なので、「参照賃金」が上昇してしまうとホテルマンの賃金を値上げせざるを得ず、コストが高くなるから宿泊費は値上げしていかざるを得ないのである。ホテルマンの能力が昔の何倍もの価値を生み出せるようになったということではないのだ。ネジ20個を作れる職人が、100個作れる機械になれる訳ではないのである。1泊するのに5万円も払うホテルDなどには泊まらないで、1泊8千円のラブホテルにでも泊まった方が安上がりに決まっているのである。この違いは何があるかと言えば、「歴史ある有名ホテル」というブランド価値とか、人的サービスの質などであって、製造業のようなネジを100個作れるようにせよ、とか特殊ネジを開発せよ、ということとは根本的に異なっているのである。


3)教育における生産性とは?

では、教授の生産性というのはどうなのであろうか。ネジ職人のような考え方をするなら、これまで学生20人しか教えることができなかった教授は、毎年教えられる学生数を増加させ100人教育できるようにする、ということである。それとも、昔は学生に九九しか教えられなかったのを、今は微積分を教えられるようになって、成果としての学生の品質を高める、ということを達成するということである。これが教授の生産性向上ということであろうか。第一の点から考えると、教授1人当たりが担当している学生数を増加させるということで売上を増やすのであり、第二の点では「品質向上」ということで「教授自身が教える中身を高度化・高付加価値化」と「学生の学力成績向上」ということが達成されねばならないであろう。学生の数的増加は判り易いので、第二の点についてもう少し考えることにする。

教授が教えた10年前の学生20人と、現在教えた20人を比較するとしよう(学生の基本的性能は同じレベルであるとする)。で、仮に同じ試験問題をやらせると、昔は平均点が60点、現在は70点、という風になっていないといけない、ということである。判りやすく言えば、「昔は~~理論を教えられなかったが、現在は教えている」ということとか、教授の教育技術が向上して同じ時間数の授業を行ったとしても「昔は習得率が4割だったが、現在は5割に上昇した」というようなことが達成されていなければならない、ということであろうか。果たしてこうした生産性向上を教育現場では達成してきたのか?諮問会議や審議会なんかに存在するばかりではなく、日本全国には相当数の経済学教授が存在していると思うが、「生産性を高めよ」と掛け声をかけている教授自身がこうした生産性向上を達成しているだろうか?学生の能力低下が云々とか言われるが、そうであるなら「教育の失敗」ということで、生産性が低下してきたせいでないと言えるだろうか?昔は「30点しか取れない学生を60点取れるようにする」だったのを、今は「20点しか取れない学生を60点取れるようにする」といった向上を達成するのは当たり前なのではないか、ということなんですよ。それか、20人しか集められなかった教授が、今は50人集められるようにする、というのが当たり前なのではありませんか、ということです。数も集められない、質も高められない、では、教育の生産性向上というのがどこで達成されたのかよく判りませんね。

中には教育よりも研究だ、という大先生もおられるかもしれない。成果の評価が難しいのだが、例で考えてみる。
昔は「レベル1」の論文を単位時間当たり1本しか生産できなかったが、
①今は3本生産可能になった(数的増加)
②今は「レベル2」を生産可能になった(質的向上)
③今は入学者や院生希望者が増えた(人的効果)
④研究成果を用いて資金調達が増えた(資金的効果)
というような感じだろうか。

①や②は教授個人の能力的向上であり、③は大学運営にとってプラスで、④は共同ベンチャーとか特許取得とか研究費獲得とか、現実世界に成果を反映させられる、というようなことだ。こうした生産性向上が達成されていないのに、教授の賃金は過去何十年かに渡って上昇してきたのであれば、それは非効率なだけなのではないか?ということだ。

前に例に挙げた政策研究大学院大学において、生産性向上を検証するのは難しい面はあるのだが、判りやすく言えば、
「昔は政策に反映された研究数はゼロだったが、今は2つの政策立案につながった」というようなことであろうか。それとも、政治・行政システムにおいて~~の変更を達成できた」とか、そういう何かの成果があってしかるべきであろう。論文もない、成果としての政策実現もない、では、政策研究の名が泣くのではありませんか、ということです。研究結果を世間に隠しておいたところで、誰も知らないままであるなら政策になど永遠に反映されないと思うのですが、どうなんでしょうか(笑)。


4)医療の生産性向上

医療において生産性向上をというのは、これまで単位時間当たり10人診療していたのを20人にするとか、手術件数を1件だったのを2件できるようにするとか、レベル1の手技・技量だったのをレベル2に上げるとか、そういうことは各自達成されていく訳です。更に技術的進歩によって、内視鏡手術とか腹腔鏡手術みたいなイノベーションもやっているわけです。予後の向上(例えば、寿命の延長とか、ガン生存率向上とか、何かの術後5年生存率とか)という品質管理も厳しく求められるわけです。

しかし、これが売上増に繋がるかというと、有名ホテルみたいに自分たちで値上げできませんので(診療報酬として統制されているからだ)、価格は低いままで過ぎます。ラブホテルの宿泊費で有名ホテルのサービスを提供しろ、ということを、諮問会議とか経済学者たちが要求している、ということなのですよ。これ以上価格を上げることはできないので、ラブホテルと同じ料金にして、これまでとサービスを変えることなく内部的に削減努力をしなさい、かつ表向きは有名ホテルと同じようにしなさい、という要求を突きつけているのですよ。

ネジ生産ならば、機械を導入すれば価格は安くなっていくし、人員削減も達成できるが、「人的サービス」はそうはいかないのですよ。価格を抑えるならばサービスの質を落とすか、サービス水準を高くしていく(医療の進歩を反映させていくということ)ならば、価格を上げない限り維持できないに決まっているのです。


こうした根本的な部分を考えていない教授先生が多数見受けられるようですので(私の個人的印象に過ぎないけどね)、まずは「自己点検」をやってみて下さい。さぞかし生産性が高く、毎年生産性向上に努め、イノベーションの連続みたいなのが大学教授ということなんでしょうな(笑)。自分たちの給料がなぜ上がっていくのか、成果がまるで大したこともないクセに無駄に給料を取ってる教授を養い続けられるのは何故なのか、その理由を経済学的に説明してごらんなさい。

特に期待しています>政策研究大学院大学どの



「GRIPS」の生産性はどうなっているのか?

2007年04月17日 18時22分49秒 | 教育問題
某経由で辿り着いた(これは伏せておきたいと思います)。
初めて知りましたよ、「GRIPS」!!

政策研究大学院大学 - GRIPS

この大学の名称は知ってはいたものの、改めて調べてみると国立大学だったんですね。埼玉大学の一部だったのが、独立したんだそうな。例の「加藤寛」大先生が立ち上げのところで頑張っていたようです。沿革を読んで知りました。

あと、こちらも。
政策研究大学院大学 - Wikipedia

ふむふむ、ナルホド。
・「政策における高度なプロフェッショナルの養成」
・「国際的に開かれた学際的・省際的な政策研究の高度化の推進」
・「連携機構(コンソーシアム)及び卓越した研究拠点(センター・オブ・エクセレンス)の創出」
ですか。
「現役官僚、都道府県・政令市の地方公務員等が学生として多数在籍している。」とも書かれているので、専門家養成に大きな役割を果たしている、ということですか。実際どうなんだか判りませんが。

よくテレビなどで拝見する飯尾潤先生もここの教授だったりするのですが、実際「政策研究」と言うからには何かの成果があるわけですよね?政策研究プロジェクトセンターのセンター長でもあるようですし。この中には多くのプロジェクトがあるようですが、この研究成果というのが、全く判りませんね。公表されていませんので。政府系の研究所のようなペーパーを出しておけ、とまでは言いませんけれども、研究活動の内容が何だか判らないわけです。これまでどのような成果があったのか、明らかにしてもらえれば有り難いですね。

参考までに、新着情報のリンクで紹介されていたので覗いてみました。
コレ>比較地方自治研究センター

御多分に漏れず、見た目は大変立派なわけですが、中身はカラッポ(爆)。
まず、研究・調査というのを見ると、受託事業というのがあるだけ。例によって、公益法人から金が下りるやつ?ですか。財団法人自治体国際化協会なんですって。いくつか事業の中身が分かれていますけれども、結構学外の人たちはいますね。一応「成果はこちら」とかリンクがあったので、見ると…

比較地方自治研究センター

コ、コレハ……英訳ですって。素晴らしい!本当に「センター・オブ・エクセレンス」の名に恥じない出来栄えです!
excellent!(欧米か!、いや、バーチャか!、笑)

ふざけてるのかと思ったよ。一年間かけて、金使って、出来たものがこれなんだそうだ。学生の夏休みの宿題の1つか何かみたいな印象。しかも白書の本文は訳がなく、統計資料だけってどうしてなのかとは思うね(笑)。因みに、政策大学院大学の先生がご担当の分野、「アップトゥデートな地方自治の動きに関する資料」ってのが未公開なのは何故なん?即刻公開して欲しいですね。タイトルだけが書いてあって、とても気になるので。映画の「coming soon !!」みたいなもので、気をもたせるのが狙いとか?それとも、研究には長い時間をかけているので、発表論文はさぞかし大量で、本1冊相当くらいになってしまったので公開が間に合わなかったってことなのかな?

こればかりではなく、ディスカッション・ペーパーのところもカラッポ。
なんじゃ、こりゃ?ふざけてるのかと思いましたよ。
英文資料作成って、財団法人から金をもらってうやった仕事以外ないじゃありませんか。比較地方自治研究センターの研究活動について、きちんと研究成果を公表し、その評価を同じ分野の専門家に行ってもらって下さいよ。何の為のセンターなのですか?(笑)


そういえば、大田大臣は内閣府を辞めた後、このGRIPSの教授ポストでしたよね?在籍期間が大変短くて、所謂ひとつの腰掛みたいにしか思えない訳ですが、これって天下りの一種ってやつですか?そうでないなら、在籍期間に行われた授業の時間数とか、発表した論文数とか、そういうのがあるのなら出してみて欲しいですね。一体どのような政策研究を行い、その成果とは何で、それを今後何かに活かそうとするのか、ハッキリと出してみて下さい。大学の効率化とか、競争原理云々を主張するのですから、それくらい当たり前ですよね?

飯尾先生の政策研究の成果は何でしょうか?テレビや新聞なんかで喋るのも結構ですが、「結果として」政策に反映させるべき論文なり研究というのを出してもらいたいですね。飯尾先生の研究によって、政策に何が反映されたのか?よく理系研究なんかでも、「こんな研究をやって何の役に立つんだ?」とかの意見があるわけですが、恐らく「センター・オブ・エクセレンス」な政策研究大学院大学においては、よもやそのようなことはないはずであろうと思いますし、殊に「政策研究プロジェクトセンター」のセンター長であらせられます大層立派な教授先生におかれましては、さぞかし無駄のない「政策に反映される政策研究」というのをやっておられることでしょう。政策研究大学院大学の研究によって、どの政策が実施されたのか、どの政策が変更されたのか、或いは既に行われた政策の評価を行い、政策効果が検証されていることだろうと思われますので、それら政策研究に関する成果をきっちりと提示して頂きたいと思います。

政策研究大学院大学って、学生数が異常に少ないわけですが、教官の数の方が圧倒的に多いので、ひょっとして学生1人に対して複数教官が専属で付いているとかなのでしょうか?王様の子弟みたいな恵まれた人たちだけに許される、専属家庭教師みたいなものでしょうか?政策研究大学院大学の生産性について、是非とも学術的に考察して頂き、どれほど効率的で高付加価値の仕事をしているのか、即刻実証してみて下さい。優秀な頭脳を持つ教授先生たちが大勢おられるでしょうから、それくらいのことは朝飯前でありましょう。教授1人当たりの生産性について、他大学の教官と比較検討を行い、具体的な数値を出すことくらい可能なのですよね?よく社会保障費関係について「数値管理」の重要性を主張する学者さんたちはそれこそ掃いて捨てるほどいる訳で、政策研究大学院大学においても数値管理でお願いしたく存じます。

まさかとは思いますが、教官の頭数ばかり揃ってはいるものの、まともな政策提言の1つも出されず、研究成果もまるで上がっておらず、実施された政策の評価をやるでもなく、日本の政策立案において何一つ役立っていない、ということはないのですよね?少子化対策でも、教育改革でも、社会保障改革でも、何だってよろしいので、現実に実行された政策をきちんと出して下さい。絵に描いた餅であり続けられるなら、誰でも出来ますので。「タイムマシンを作製する為の理論的研究」のような、自分の好きなことを永久にやってりゃいいわけで。そういう自己満足の世界に浸っていたいのであれば、肩書きばかり教授とか付けてるけれども、役立たずの無駄な人員の頭数を削減して頂いた方が他に予算を回せますから、国民にとっては有り難いことです。

あくまで素人の勘繰りに過ぎないのですが、天下りポストの1つでしかないのなら、そのイスは確実に潰せ、というところでしょうか(笑)
当然ですよね?>内閣府特命担当大臣であらせられる大田大臣



教育分野の見通し

2007年03月04日 13時48分45秒 | 教育問題
先日の宿題になっていたものですが、ちょっと間が空いてしまいました。失礼しました。前の記事に頂いたコメントを再掲致します。

記事はこちら>崩壊は止まらない


私は健康・医療分野は今後伸びると思いますが教育はどうでしょう?むしろ公教育の強化で少しずつ塾が不要になるような。(少子化の要素の一つが教育費の高騰の為)日本の実践的でない大学教育や大学受験を目的にするシステムが無駄との理論が沸いてくると思いますが甘いかな?

それと日本に掛けているのは金融の運用力と個人消費を喚起する余暇だと思います。アメリカに比べ10ポイント以上低い個人消費と第三次産業の就業率。日本は残業が多く平日の余暇時間が無く、長期休暇も無い。物を買う消費スタイルよりサービスを買うスタイルのほうが国内でお金が回るわけで雇用も増えます。どうでしょうか?



殆ど仰る内容について同意なのですけれども、教育分野での将来についてもう少し補足したいと思います。
私の考えとしましては、1人当たりの教育投資を増やすべき・そして増えるであろう、と考えております。これについて述べたいと思います。

まず、これまでの日本というのを振り返ってみれば、昔は「中卒」が珍しくはない時代がありました。集団就職とか、そういったこともありましたが、段々と高卒以上が9割以上となっていきました。更に、高卒で就職する割合は減少し、専門学校への進学割合は増えました。大卒以上の割合も増加してきたのです。近年、海外留学者の増加やロースクールなどや大学院重点化などの施策によって、大卒以上の教育課程を経験する割合は増加してきたのではないかと思っております。

他の側面としては、英会話に関する投資などがわかり易いと思いますが、学校教育終了後であっても「何かを学ぶ」為の投資というのが行われるようになっているのではないかと思われます。パソコン教室なんかもそうですね。ある1人の人物を見てみると、義務教育~高等教育、社会人になった後での教育、専門分野に関する教育、これらが長い年月に渡って行われてきているのであろうな、と思うのです。これからの時代であれば、かつての単純労働のような仕事は減少していくと思われ、所謂頭脳労働のような仕事の比重が大きくなっていき、さらに高度化・専門化された分野での仕事が重要になってくるであろうと思います。そういう労働の変化に伴い、必要とされる能力・知識などが高度なものとなり、就業後であっても広い意味での教育投資が必要とされるであろう、と思われます。そういった意味においては、教育分野においては価格上昇をもたらす要因になるであろうな、と考えています。

経済規模で考えると、人口減少が明らかですので、教育分野の総額がどういったことになるのかは不明ではあります。すなわち、1人当たり300万円の投資であったものが、将来1000万円投資に変わったとして、10人だった時代ならば総額3000万円ですが、4人に減ると4000万円ということになります。1人当たり投資額が500万円にしかならなければ総額は2000万円に減りますし、たとえ1000万円になったとしても、日本国内での高度な教育が全敗し、みんな海外の大学院などに行ってしまうのが標準的となれば、投資額の一部は海外へ逃げていくことになるので、日本国内の市場規模は縮小するでしょう。単純に、従来型の進学塾とか、競争力のない専門学校・大学などの需要は少子化がのために伸び悩むとか減少していき、大手に集約されていく可能性はあると思います。必要とされるのは、ある程度特化した分野に強いとか、国際的な基準で遜色のない教育を提供できる、といったものではないでしょうか。

他には、昔だと少なかった、スポーツ・音楽・芸能関係の教育でしょうか。現在でも、趣味の延長に「習い事」のような部分はあると思いますが、もっと専門的とか高度な教育システムみたいなのが出てくるかもしれず、そういった市場は個々の需要が小さいけれども、多額の費用がかかる場合も多いので、価格は上昇するだろうと思います。例えば、ゴルフ、水泳、フィギュア・スケート、バレエ、バイオリン、ピアノ、みたいなものです。子どもの教育にも関係ありますが、大人になってからでも需要はあると思いますので。

ヘンな喩え(「機械に喩えるなんて・・・」とか最近流行りの非難があるかも)ですけれども、パソコンの性能をアップするのに、「ハードディスクは容量を従来の~倍以上で」「CPUはハイエンドマシン用最速最強で」「メモリは最低1G以上で」みたいなもんかな、と。個々の人間の水準を上げようと、あれこれ投資するんだろうな、と。性能のいいマシンならば、色々と付加価値の高い仕事(安いマシンではできないグラフィック、設計、デザイン、アニメーションとか?)に使えるよね、というようなことかな。1人ひとりは生産性の高い仕事をこなす、ということになって行くでしょう。

ですので、教育サービスを提供する人たちの所得水準が上がっていくので、恐らくサービス価格は上昇するであろうな、とは思います。市場規模全部でどれほど大きくなれるかは未知数なんですけれども。



教育を考える13

2007年01月31日 10時39分26秒 | 教育問題
朝日新聞に本田由紀先生の論説が載っていた、というのをH-Yamaguchinet 教育再生会議から学んだことで知った。
山口氏のご意見は、政治的な決定プロセスという部分に着目して、専門家同士の会議では中々踏み込めない部分については「専門外」の構成員が多数含まれている、教育再生会議のような「超越的諮問機関」で踏み込むという手法も一法であろう、ということだと理解した。うん、そうかもしれない、というのを私も思う。だって、専門外のことにばかり首を突っ込んで色々と書いているのは、何を隠そう私だからである(笑)。これまでの教育の専門家たちの議論というのは、対立点があったりすると、そこから先に進めなくなって、結局具体性に欠ける合意点にしか到達できなかった、という部分があったのではないかと思える。故に、教育行政については、一貫性も決定打(これは過剰な期待かもしれないが…)も見出せなかった。昔の記事の中にも何度も書いてきたのだが、専門外でしかない国民の「じゃあ、どうするのさ?」という素朴な疑問に対して、明確に説明することがなかった、答えを用意してこなかった、ということなのではないかと思う。

これは教育分野だけに限ったことではなく、他の学術分野でも同じような問題構造を持っているかもしれないのだが(ニセ科学云々と似た部分はあるように思えるからである)。教育再生会議の位置づけと似ているのは、上限金利問題で議論を呼んだ貸金業に関する懇談会もそうかもしれない。国民の大多数や市町村議会からの提出意見は、全て上限引下げを求めるものであったし、懇談会メンバーは全部が金融関係の学者や専門家ばかりということではなかった。これがもしも経済学者たちや業界専門家たちだけで構成されていたならば、踏み込めない部分はかなりあったかもしれない。そういう意味では、「超越的諮問機関」の「素人感覚」的意見というのは、局面打開の推進力になり得るかもしれない。

前置きが長くなってしまったが、本題に入る。
この前の中教審での山田先生の議論(教育を考える12)を選択したのには、ちょっとした理由がある。それはあの回の提出資料に、中々重要なことが書かれていたからである。これはついこの前の記事の中にも、チラッと含めておいた。「勉強時間」をただ単純に増やせばいい、という発想が本当に望ましいのか、という問題があるからである。「成績」との関係というのが、あまり明らかになっていなかったからである。OECDの比較なんかでは、成績優秀なフィンランドの授業時間数が、そんなに飛び抜けて多かった、ということも認められなかった(笑)。本田先生の論説は、そのことを的確に指摘していると思えるし、そちらの解説をよく見て頂いた方がいいだろう。


今回は、これを取り上げたい。

子どもたちの自己評価・勉強観・将来の希望について


この中から、いくつか気になった部分をピックアップしてみる(資料は、ご自身で内容を確かめられた方が良いと思います)。


◎生活の中で重要なこと(の上位回答)
(「きわめて重要」と回答した比率、%)

同性の友人との交友  62.5
学校の勉強  49.1
一人でいる時間  43.9
家庭生活  43.3

何と、「おトモダチ」関係が一番大事、ということが窺える。しかも同性。これは年齢にもよるのかもしれないが。最も気になるのは、要するに「自分が友人関係の中で浮かないように」とか、「友達が一番理解してくれる」とか、そういう思い込みなのか幻想なのか判らないが、「友達と繋がっていないと超不安」症候群(私の勝手な創作です、失礼)みたいなことのように思える。価値観として、友達は大事なんだ、というのは同意なのですが、やや違和感があることはある。

疲れたので、砕けて書きます。

携帯を一日何時間くらいやってる(操作?)か、とかの質問で、2時間以上やってるヤツラとか、6時間くらいやってるとか、もう信じられないわけです。アホかと。下手すりゃ、睡眠時間よりも長いんじゃなかろうか、というくらいの勢いなんですよね。そりゃ、さすがに「やり過ぎ」だわ。勝手な推測だけど、それもきっと「おトモダチ」関係を継続させていくための、相当な自助努力なんだろうな、と思ったりするわけですよね。そんなに、交友関係を維持していくのに、コストかけてどうすんの?とは思うわけです。時には、深刻な話を聞かされたり、色々と悩みを打ち明けられたり、仲違いをしたり、あれこれあるだろう、というのは理解できる。でも、友達同士の関係の中で、そんなにコミュニケーションを努力しなくてもいいんじゃないか、もうちょっと気楽に行ってもいいんじゃないか、とは思うね。ひょっとして、全てを知りたい、みたいな勘違いとかあるのか?赤の他人なんだから、判らないことだらけだと思うよ。それで、いいじゃないか、と思うね。

なので、「友人」呪縛によって、相手が「時間をかけてつくす」のだから、それにこっちも応えていかねばならん、みたいなことになっているんじゃないでしょうか。それって、低年齢のうちに、子どもの世界の中で「トレーニング」を受けてない(少ない?)からとか、あるんじゃないだろうか?どうなんでしょう?よく判らんけど。どっちにしろ、昔は電話すること自体が滅多になかったし、電話してても「家族みんなが聞いている」中で、会話せざるを得ず(昔は全て有線方式の固定電話が居間なんかに置かれていた、笑。ワイヤレスだの、子機だのが登場するまでは、手に持って何処かに行くなんてできんかったのよ)、短くしか話さなかったね。学校で、面と向かった時に話せばいいんだよ。でも、今はそういうのが難しいのかな?全員が交換日記(=今で言えばメールでやりとり)でもやってる感じなんだろうか。そう思うと、何だか笑える。交換日記を非難してる訳ではないですよ、勿論。でも、(男のくせに)交換日記なんて…とは思ってた、昔(なので、やった経験はない)。


◎してはいけないこと(%)

先生に暴力をふるう  77.3
友達をいじめる  78.7

規範意識については、米中に比べて低い数字が多い。特に、教育再生会議でも議論に上がってきた2つを見れば、約2割以上の子どもが、「してはいけないこと」と認識していない面がある、ということが問題だと思えた。「親に反抗する」という項目でも4割を切っており、米中の半分程度でしかない。これらから思うところを述べれば、子どもにとって「絶対的権威」のようなものが存在していない、という面が強く感じられる。言葉として「絶対的」とか「権威」とか言うのが不適切なのかもしれないが、まるで社会のルールとしての法みたいなものがない、という印象である。普通の社会では、違法なことに対しては、それに対する法の強制力が働くようにできている。店に陳列されている商品を見て、自分がどんなに「これが欲しいー」と思っても、それを自由勝手に自分のものにすることはできない。しかし、子どもたちは「自分が主張」すれば、そこそこ通ってしまう、という経験を積むことで、自分のものにできる、という「学習」効果を得ているのではないだろうか。要は、甘えであり、我慢がないのである。自分の意に反して「受け入れなければならない」ということがたくさんある、ということを経験的に学んでいない面があるのではないか。

そうは言っても、してはいけないと認識しているのが多数派なので、みんなが問題になるわけではない。けれども、家庭生活の中での親子関係に、子どもに同調しがちとか「おトモダチ」感覚でしかないとか、そういう部分は多くなってきているのかもしれない。基本的には、してはいけないことやルールを守ることなんかは、家庭で教育するべきことであり、学校教育での問題であるとも思えないのである。主に大人(親)が「ルールを守らない」というような規範意識の低下が酷くなっている影響かもしれず、政治家や知事や高級役人などがボロボロ逮捕されたりしているのを見れば、一体全体どういう教育を受けてきたのか、とは誰しも思うだろう。子どもばかりを責めるのは酷かもしれない(笑)。

親子の間では、衝突や反抗したいこととかは必ずあるし、それは子どもの成長の証でもあるように思うので、絶対服従みたいな軍隊式が良いとは思わないが、それでも基本的には「親」という権威の前には従うというのが規範であるし、その延長として先生(という権威)や大人たちには従う、ということがあるのではないかと思う。子どもたちが力関係を認識する時、自分と同じかそれ以下であるという場合には、当然それ相応の態度を取るのではないだろうか。昔ありがちだった、「校則は管理教育で害悪だ」「権力によって押し付けるのは子どもの人権を侵害する」「子どもの権利を守れ」というのも、部分的にはそうなのかもしれないが、別な面では過度に「放任」になってしまって、何の強制力も働かない・罰を受けないというのが子どもに「見透かされている」という方向に来てしまったのかもしれない。何だか、ドラマの「女王の教室」を思い出した。


◎クラスのいじめに気づいたら(%)

いじめをやめさせようとする  45.2
そのまま見ないふりをする  54.8

いじめについては、傍観者の立場になっている方が多い、ということである。これが中3だと6割以上が見ないふりをすると答えている。段々と、「やめさせようとして」逆に浮いたりターゲットにされるくらいなら、見ないふりをした方がいい、ということを学習するのかもしれない。人間はそれほど強くはないですよね。先の「おトモダチ」関係を維持するということともちょっと関連しているのかもしれない。異質性というのを極度に恐れるのかも。イジメに関しては、もっと専門的なご意見が多々あるので、対策等は別に考えてもらった方がよいが、家庭では卑怯者への嫌悪感みたいなものを子どもに教えてあげられるとよいかな、と思う。



教育を考える12~教育問題は、教育では解決できない

2007年01月24日 23時04分52秒 | 教育問題
直接講演を聞いた訳ではなく資料からだけですが、山田昌弘東京芸大教授の意見を見てみたいと思います。

中央教育審議会義務教育特別部会(第2回)議事録・配布資料

(一部抜粋)



学校が希望だった時代:

*  パイプライン・システム(ヤンミン、マイミン)
勉強努力(苦労)が報われる「確実性」があった。
受験勉強という努力 よりよいパイプ(卒業学校)に入ることができる。
卒業という努力 パイプ(卒業学校)が想定する職に就くことができる。
(職に就く - 将来、豊かな生活が送れる)


教育が希望でなくなる時代:

* パイプラインの漏れ - 学校システムの機能不全
勉強努力 (苦労)が報われるという確実性の消失 - 教育は希望でなくなる
受験努力  学校が入りやすくなる - たいした勉強をしなくても入れる
卒業努力  パイプが想定する職に就けない - どうせ使い捨て労働者になる

特に、(相対的)能力がそこそこのもの 希望を失う (「希望格差社会」)
「漏れの多いパイプに入ったもの」「パイプが合わずに漏れてしまったもの」




まず、この対比ですけれども、なるほどうまく言い表せているかな、と思います。ただ、いくつか疑問があるので、とりあえず書いてみよう。

乱暴な言い方をすれば、今は勉強の努力が報われないという不確実性があるから「頑張る気力も失せる」、ということなんでしょう。でも、今までに何度か書いてきたが、「努力」と得られる結果というのは一致するとは限らない、というのは当たり前のことなのではないだろうか?努力している人たちなんて世の中にごまんといるわけで、「オレは毎日塾に通い、頑張って勉強したのに志望校に入れなかったのはオカシイ」、とか、そういう発想そのものというかそれを認める風潮みたいなものに問題があるのではないでしょうか?どれ程努力してもオリンピック代表に選ばれない人たちは、選ばれる人よりも圧倒的に多いでしょう。そういう時、選手たちは「努力する気力が失せる」とか言ってるのでしょうか?プロ野球選手を目指していてもプロになれなかった人たちは、「野球で努力をしない方が良かった、努力が無駄になったから希望はなくなった」とか言う人たちが多いのでしょうか?

この記事を書いた時に思ったことと同じなんですよね。簡単に言うと、ある大学院生が「自分は勉強を一生懸命頑張ってきたが、勉強とか成績とかにはあまり関係ないコミュニケーション能力とかで企業採用が左右されるのは疑問だ、勉強よりもバイトや部活をたくさんやった人たちが評価され採用されるのもオカシイ」みたいな意見を出していたのだが、これと似ているのですよね。家庭とか社会なんかの、価値観の植えつけ方そのものに何らかの問題があるのではないか、という印象を受けます。それは大人たち―親や教師など―が、正しくそう考えているからで、子どもたちはそれを学んだだけなのではないのかな、と。「頑張っても無駄なんだ、会社の為に努力してきたのに切り捨てられるんだ」というような、多くの大人たち自身が希望を失ったのでしょうか。

受験努力にしても、フリーターを多く生んだ90年代後半に受験~卒業期を迎えていた世代は、同年齢人口が割りと多い世代(団塊ジュニア世代~それ以降)であり、例えば95年入学、99年卒業なら(現役であったら)今年30歳になる。この世代でも競争はそれなりにあったのではないかと思うが、どうなんでしょう。本当に受験努力のハードルを上げようと思うのであれば、入試水準を上げるべきなんじゃないでしょうか。たとえ学生数が大幅に減少したとしても。成績の低い学生しか集まらない大学は、助成金を打ち切る等によって淘汰してあげたらいかがか、というようなちょっと過激な考えも浮かんでしまいますね。それは大学側の問題なのではないだろうか、というのが率直な感想です。パイプが想定する職業に就けない、というのも、昔ありがちであった価値観―いい学校、いい大学、いい会社というレールに乗るというような幻想―に基づいているんじゃないのかな、と思えます。そういう幻想は、あくまで幻想に過ぎなかった、ということに気付いただけのようにも思えます。そういう幻想を頭から信じ込んでいたのであれば、それを否定された時、将来が見失われることもあるのかな、とは思います。それは親の教育が悪かっただけなのではないかな、とも思えます。働けば、生きていくことは可能なのですし。大企業みたいな既存システムにうまく乗れなかった人たちに必要なことは、「じゃあ、自分の力でやってみよう」という起業家的精神なのであり、昔はそういう自営業者たちはそこそこ存在していたと思います。しかし、労働者の構成を見れば、自営業者の数は大幅に減少していたと思います。

「漏れの多いパイプ」というのは、ダメな学校という意味なのでしょうか?ちょっとよく判りませんが、そんな意味なのかな、と推測しています。それとも就職率の悪い学校とか?まあ、どうでもいい大学とか専門学校は掃いて捨てるほどあると思うので、そういう学校自体に問題があるのであって、教育全体とか社会全体の問題なのか疑問ですよね。そういう進学先を選ぶ本人も、親もそのリスクを負うのは仕方がないですよね。能力がそこそこのものが希望を失いやすい、というのは、「オレの能力に見合うのは、こんな低レベルの仕事じゃないんだ」とか、「他のヤツラは要領よくやったのに、どうしてオレだけが」みたいな不条理?のような感情を抱くから、ということなのかな?これも、酷い言い方をしてしまえば、「ハイ、しょうがないです」としか言いようがないような…プロ野球のドラフトで入団した後で、芽が出ずに数年で解雇されている選手なんて、それこそかなりいますよ。2軍暮らしで明け暮れて、一度も一軍の試合に出られないまま、切られる選手は必ずいますよ。毎年新人選手を採っているのですから、その分選手生活を終わらせられる人たちは必ずいるのです。「オレはこんなもんじゃない」といくら本人が思っていようとも、野球以外の「やりたくない仕事」に就いて生きていかねばならない人たちだって必ずいるんですよ。それは自分の選んだ道で、チャレンジなのだから仕方がないのですよ。希望を失う人たちには、そういう厳しさが足りないとしか思えないんですよね。


更に引用してみたいと思います。



*絶望の二極化
親にパラサイトし、親が教育費を出し続ける - 絶望の中で学校に行き続ける
豊かでない親 - 社会から漏れていく

*義務教育の希望とは?
これだけの勉強をしたら、このレベルの職に就け、この程度の生活ができる
教育問題は、教育では解決できない 「職や生活」への見通しをつける




まず、親が教育費を出し続ける、というのは有り難い話で、これのどこが希望を失わせるのか全く不明なのですよね。絶望の中で学校に行くのはイヤならば、辞めればいいと思うのですけど。極端な話、どこかの外国にでも行って、自力で生きてみればいいのではないでしょうか。学校に行けることのありがたみがよく判るような気がするんですけど。豊かでない親の家庭であると、社会から漏れてしまう、ということであるならば、奨学金(無償、有償)、教育費貸与とか免除とかの支援制度を拡充することで対処すればいいのではないかと思えます。金がないから勉強できないとか学校に行けない、というのは、本当にそうなんでしょうか?私立中学とか何とか言っても、それは2割程度に過ぎず、残り8割は公立なんですよね?社会の大勢は公立じゃないでしょうか(笑)。私立大学にしても、中には成績上位者の学費免除とか制度はあると思うのですけど。要するに、そういった情報が届いていない部分があるのであれば、是正するべきですし、「金がなくても大学を卒業する方法はある」ということをできるだけ知ってもらえれば、と思います。

山田教授のまとめの中で、最も「アレ?」っと思ったのが、「これだけの勉強をしたら、このレベルの職に就け、この程度の生活ができる」という部分なのですよね。今の子どもたちは、利益志向で合理的に行動するのが当然だから、「どうして勉強するのか」「この勉強が何の役に立つのか」ということ(近頃のハヤリ?偶然ですけど)を納得できないと勉強しない人間になっている、ということなんですかね。これも、家庭での生活の仕方によるのではないでしょうか。親が子どもに何かの忍耐とか、厳しさを教えるということが少ないように思うのですよね。「勉強できる」そのこと自体が、とても幸せなことなのであり、価値があるのだ、ということでいいような気がするんですが。もっと何か高度な理屈を付けないと、子どもは納得できないものなんでしょうかね。よく判らないんですけど。

「これだけ勉強したら~云々」というのは、昔のような、「レール」主義(こんな言葉はないですけど)みたいに、「東大出れば、官僚か一部上場企業で安泰」「○○大だから、スーパー店員が関の山」というような感じで、「職や生活」を提示せよ、ということなんですかね。それとも、たとえ成績が悪くても、「キミは毎日2時間勉強してるから、年収は400万円まで行ける」というようなことなのでしょうか?こんなことで勉強の動機付けを行えるとは思えないのです。将来見通しは大事ですよ。でも、それは「最低限こうなる」という下支えであって、いい大学、いい会社幻想を強化することではないと思うのですけどね。


「教育問題は、教育では解決できない」

山田先生はもっとこれを広く訴えるべきではないでしょうか。この意見には全面的に賛成できるという訳ではないのですが、当たっている部分もあるな、と思えますので。教育再生会議の性急な議論にも、不安がありますし。



教育を考える11~「ゆとり教育」とは

2007年01月21日 18時03分18秒 | 教育問題
昨日の記事が途中になってしまい、申し訳ありませんでした。続きを書いていきたいと思います。


まず、基本的な部分から見て行きたいと思います。

昨日の米長氏の記事にあったように、「ゆとり教育」という言葉、語感は、メディアを中心に批判のターゲットにされていますけれども、世間一般の人々(私も含めて)の知っているものと、本来の「ゆとりある教育」の理念の間には隔たりがあると思います。これはかなり以前に、極東ブログでも上げられていました。

極東ブログ 「ゆとり教育」という言葉にこだわる


で、極東ブログでも参考にしていたのが、こちらですね。

ゆとり教育 - Wikipedia

(当時とどの程度中身が変わっているか調べてないですけれども、多少は書き換えられているでしょう)


とりあえず、出発点から誤解があるかもしれないのです。国民の大多数は多分知らないと思います。そりゃそうですよね。行政の情報というのを十分理解するのは中々難しいので。私もブログがなければ、全く知らなかったですし。「ゆとり教育」と単に表現されているのは、「内容的に簡単なものになってきた(かも)」ということと、「授業時間数が削減された」ということが大半であって、「ゆとりある教育」の根本理念とはあまり関係がないのではないか、とか、「ゆとりある教育」を今すぐ捨て去ることが正しいのか、ということには基本的に繋がっていないのですよね。でも、普段よく聞く「ゆとり教育」というのが槍玉に挙げられているので、みんなは反対と言うだけなんですよ。

まず、言葉の定義として、全員の認識を一致させるところから始める必要があるのですよ。これって、「ニート」に関連した議論というか、メディアの利用とか、そこら辺と同じような構図になってしまっているのではないでしょうか。多くの国民は、こうしたところに関心がなく、よく知らないままで「ゆとり教育が良くない」「ゆとり教育になってから成績が下がった」という誤解を持っていると思われます。大体、自分の家の子が「成績が下がった」「頭が悪い」というのは、そもそも親自身が頭が悪いかそういう人生を生きてきたせいであって、「学校教育のせい」とばかりは言えないんじゃないか?(頭が悪い親に限って、そういう可能性を省みたりはしなさそう・・・)
こんなことを書くともの凄く怒られそうだけど、基本的には家庭のあり方に根本原因があるのではないだろうか、という個人的思いはあるね。


これに関連して、例の『ヤバい経済学』ですけれども、実際に分析からそういう可能性は窺えるんですよね(日本じゃないですけれども)。

教育は格差を再生産するか
教育は格差を再生産するか~その2

なので、細かいことを取り上げるようで申し訳ないが、まず、「ゆとり教育とは何か」ということを、正確に国民に理解してもらうところからやった方がいいですよ。メディアなんかで用いられてきた「ゆとり教育」という言葉と、本来の「ゆとりある教育」というものは違う、ということをきちんと国民に説明し、知らせるべきです。ここまで憎まれてしまった「ゆとりある教育」について、軌道修正がどうしても困難であるならば、「ゆとりある教育」という表現を(残念でも)捨てて、別な表現方法に変えるしかないかもしれないが。でも、「韓国式がいいですか?」と訊かれたら、私は絶対に「イヤだ」と答えるね。あんな、入試の為に時間も労力も多大に消費するのはバカらしいと思うけど。競争は必要だが、全員があんなバカなことをやる必要はないと思うね。

それと、「教育」という風に大きな括りで論じられることが多いと思うのですけど、小学生と中学生と高校生と大学生って、みんな教育を受けてるのは当然なのですが、ステージによってかなり違ってると思うのですよね。ここにも、議論のズレを生じやすい落とし穴があるんじゃないだろうか。普遍的な教育論として語られることと、現場で実践したり改善したりしていく時、合わないところが沢山出てきそうなんですよ。なので、面倒でも、分割して議論されるべきなんじゃないだろうか、と思うのですよね。多くの国民は大抵、今置かれている状況とか、比較的最近の過去を振り返って考えることが多い気がして、そうなると、小学生の子を持つ親の意見と、高校生の子を持つ親の意見とか、全然違ったものが出されてくると思うんですよね。自分の家を振り返っても、自分の子が小学生の頃に思ったり感じたことと、中ニになってしまった後では、やっぱり違うように思うんですよ。ですので、小学入学前、小学校(低・高分ける?)、中学校、高校、大学~、くらいに細分化した状態で議論が必要だろうと思いますね。多くの国民からは、これらが全部一緒になった状態で意見や世論形成されるけど、それは多分正しくない部分が多く含まれそうな気がします。教育基本法のような根幹部分のことについては、どちらかと言えば普遍的な事柄を多く扱うのだろうけれども、「ゆとり教育」のような具体的な政策・方針になってくると、同一基準での議論は難しいと思います。

もともと各種審議会レベルでは、こうした区分がなされた状態で議論が進められていくと思いますが、教育再生会議はそこまで具体的に踏み込んで議論するのが難しいのであれば、大枠レベルでの内容に留めておくべきでしょう。委員の方々にしても有識者ではあるけれども、教育に関して学術的判断・評価が可能なメンバーばかりとも言えないので、そこは一般庶民レベルである可能性も考慮した上で、ご意見は部分的に割り引いて見ておかねばならないでしょう。



教育を考える10

2007年01月20日 18時53分18秒 | 教育問題
久々の忘れ去られたシリーズ復活です(笑)。

まずは、こちらをどうぞ。

さよならマルクス 内田樹の研究室


子どもの労働とか救貧院ということで、私の場合に直ぐに思い浮かぶのは、オリバー・ツイストかセーラ・クルーなわけですが(笑、無教養につきご容赦を)、今はそういう話ではありませんね。どうも「ゆとり教育が諸悪の根源」みたいな発想が多いと思うのですけれども、それって本当にそうなんでしょうか?メディアの煽動に惑わされているのか、世評の雰囲気に圧されているのか、よく判りませんが、こと教育問題については、時間をかけてもいいはずですし、慎重に考えるべきだと思います。拙速は避けるべきです。新たな教育基本法可決に漕ぎ着けるまでの時間とか道のりは、それこそ数年がかりでやってきたのですよね?学習指導要領改訂なんかも絡むのだろうと思いますが、中教審での議論は何だったんだ、とか、そういう問題も起こってくるのではありませんかね。全くの無駄な討議の積み重ねに終わってしまうのではないでしょうか。

教育再生会議の報告内容は、決して「決定事項」ではありませんし、最終的には国民の選択に委ねられるのだと思います。なので、どんな中身が出されるのか、どこの部分を肯定的に評価し、どこを否定するのか、そういう細かい部分を見て行かねばならないでしょう。再生会議の議論や結論の方が圧倒的に正しくて優先順位も上だ、という単純なものでもないでしょうし、中教審の方にも良いものがあるのであれば、そちらから選択する部分があってもいいと思います。他の誰かが教育再生会議とも、中教審とも違った意見を出す、ということも当然あっていいはずです。

かつての「受験戦争」だの「詰め込み競争」だのと言われてきて、今の韓国みたいに(毎年これからのシーズンになると韓国事情が報道されますよね・・・アホじゃないか、と思えるくらいの受験狂想曲っぷりですよね)なることを望むのでしょうか?そこら辺が疑問なのですよね。学校の机に座って勉強する時間が減ったから、「成績が下がったんだ」という単純なものなのでしょうか?であれば、たとえば教育技術というのはあまり関係なく、単に「成績は勉強時間に比例した関数で表せる」みたいなものなんでしょうか?そういった基本的なところから、判っていることを積み上げていくべきだ。絶対に一つの結論じゃなきゃダメ、ということでなくてもいいはずだし。これから直ぐに結論を出さねばならないものでないならば、腰を落ち着けて、また直ぐに方向転換しなくても済むように今の段階で時間をかけるべきだと思う。


東京都の教育委員としてやってきた米長さんは、次のように語っていますよ。

【正論】米長邦雄 「ゆとりある」教育をなくすな-コラむニュースイザ!


これまでも、教育行政があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、混乱を招いてきた経緯はあるように思われるので、それが再び繰り返されることは誰にとっても不幸でしかないです。

教育再生会議からの意見は、主に国民の中によくありがちな意見(例えば私のような無知な人間が言うようなもの)とか、ターゲットにしている保守層?から出される代表的意見、みたいなのを意識しているかもしれない。それが果たしてどの程度の合理性・妥当性があるのか、というのは判断が難しいかもしれません。なので、一つのやり方に統一することがどうしても許容できないとか、圧倒的多数の合意を得るのが難しいような部分は、あえて手を付けないか「しない」という選択も止むを得ないんじゃないかと思う。極めて消極的だけれども、「やって」無残な結果を招くくらいなら、変えたりせずにおいた方がまだマシだった、とかってこともあるので。国民側からは、そうした意思表示は行えるはずだろうと思う。「こうしてくれ」「この方法でやってくれ」というのを最終的に一つに絞らねばならないとすると、教育論・方法については論者も説もそれこそごっそりあるし、成功・失敗体験も人間の数だけあるので、議論を収束させるのはとても難しいと思うよ。そういう時は、少なくとも「これだけは止めてくれ」ということも一つの意見の出し方じゃないかな、と(ああ、ひょっとして、これも『ダメな議論』メソッドの一部?だな)。


ちょっと、退席します。