電脳筆写『 心超臨界 』

幸せは外部の条件によって左右されるものではない
自分の心の持ちようによって決まるのである
( デール・カーネギー )

活眼 活学 《 精神と生活 (1/2) ―—安岡正篤 》

2024-10-02 | 03-自己・信念・努力
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そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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我々は案外精神が散乱し易い。ものに打ち込むということは難しい。東洋哲学でいうと、“止”という言葉がある。これは「とどまる」であるが、実はものに打ち込んで一体になることで、“止観”といえば、ものに打ち込んで、ものと一つになって、ものをその内から観る叡智・直観をいうのである。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p136 )
[2] 人生心得
6 日用心法

◆精神と生活 (1/2)

第五、自分は日常生活上の出来事に一喜一憂し易くないか。つまり日常の出来事に軽々しく感情を乱されるようなことがありはせぬかということ。

生活上の問題に一喜一憂し易く、特にすぐ悲観したり、昂奮し易いというのは病的で、事を成すに足りない。こういう人は環境に支配される力が強いのであるから、自己の主体性がないのである。自身の中に豊かな大和的内容がないのである。伝染病にかかり易い弱体と同じことである。

第六に、たとえそういう精神的動揺があっても、仕事は平常通り続け得るかどうかということである。

そういう感情上の動揺があっても、仕事は平常の如く続けられるというのは、それだけバックボーンができておる証拠なのである。理性や意志の統御の利く人である。

昨日の失敗のために、今日の仕事が妨げられないでゆけるという試練、終始一貫してゆけるか、ちょっとした失敗で、すぐその仕事が厭になるかという差別の及ぼす結果は大変なものである。

それには第七、絶えず次のようなことを自分で反省し、修養する必要がある。それは毎日の仕事に自分を打ち込んでおるかどうかということである。

我々は案外精神が散乱し易い。ものに打ち込むということは難しい。東洋哲学でいうと、“止”という言葉がある。これは「とどまる」であるが、実はものに打ち込んで一体になることで、“止観”といえば、ものに打ち込んで、ものと一つになって、ものをその内から観る叡智・直観をいうのである。

ある役人の練達な事務家が、「自分は廻って来た書類を摑むと、大体これは良いか悪いかということが分かる」と言っていたことがある。それは仕事に打ち込んできた経験が、だんだん直観力を発達させたのである。

私どもも、絶えず思想的な書物を、終始何十年も読んできておるので、そういう本ならば、手に取ってパラパラめくると、この本は良いか悪いかということが分かる。果物屋は、蜜柑でも、柿でも、木を見て、良否はもちろん、幾つなっておるかということまで大体当てる。それでちぎってみると、五つか六つくらいしか違わない。機械の熟練技師もそうである。機械を一々分解しなくても、機械自身どこが悪いといことを訴えるというが、本当に分かるのである。

すべてそこまで行けなければいけない。それには仕事に打ち込んでおるかどうかということから始まる。

第八、自分は仕事にどれだけ有能であるか。自分は仕事に適するか。こういうことを絶えず自ら実験してみることである。

ところが案外自分は有能である、有能でないという判断が当てにならぬ。しばしばとんだ錯覚や浮気があって、自分の柄にもないものを、いわゆる“下手の横好き”で好い気になるものである。

興味あるということと能力があるということとは違うのに、よくそれを錯覚する。えてして、自分本来の能力を意識しないで、自分の本来の能力でもない、自分にとっては枝葉・横道の方へそれ易い。

だから、本当に自分はこの仕事に適しておるかどうかということも、案外冷静に克明に吟味しても、容易に断定することのできぬ問題である。まず自分を虚心・無欲にせねば判断できない。

第九、現在の仕事は自分の生涯の仕事とするに足りるかどうかということ。

もし生涯の仕事とするに足りないと思われれば、できるだけそれを生涯の仕事にするに足りるように研究するか、何かそこにまた落ち着いた正しい工夫と努力とを要する。

我々の心構えと努力の如何によっては、どんな小さいことでも、生涯の仕事とするに足りるものである。いかなる小事も深く入ってゆけば、大和の理によって無限に世界が開けるからである。
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