電脳筆写『 心超臨界 』

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( ルイ・パスツール )

不都合な真実 歴史編 《 日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を下さいました――チャンドラ・ボース 》

2024-07-07 | 04-歴史・文化・社会
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「約40年前、小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。このアジアの国はロシアを大敗させました。そしてその国が、日本だったのです。このニュースがインド全土に伝わると興奮の波がインド全土を覆いました。インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立っていました。インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、家に飾りました」(チャンドラ・ボース)


◆日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を下さいました――チャンドラ・ボース

『連合国戦勝史観の虚妄』
( ヘンリー・S・ストークス、祥伝社 (2013/12/2)、p157 )

20世紀で最も驚く展開は、500年続いた植民地支配、その呪いが終焉を迎えたことにあります。白人による支配が霧散してしまいました。誰もまったく予想しなかったことでした。

1930年代末に「インドの独立はいつになるか」と問われ、ネルーは「70年代には実現するかもしれない」と答えました。つまり彼の亡き後という意味です。しかし1940年代初頭になると、インド人たちから独立の気運が高まりました。なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。

答えは簡単です。第二次大戦が勃発し、500年のドラマの中の新興勢力が、白人植民地支配に痛烈な打撃を加えたからです。その新興勢力が、日本でした。インド独立のタイムテーブルは、ネルーの70年代から第二次世界大戦の終焉時へと短縮されたのです。ここで、20世紀から17世紀初めまで時間をもどしてみましょう。

インドでは、イギリスが1600年に東インド会社を設立し、植民地支配に着手しました。イギリスは、マドラス(1637年)、ボンベイ(1661年)、カルカッタ(1690年)に東インド会社を進出させました。イギリスの侵略は、プラッシーの戦い(1757年)、マイソール戦争(1799年)、シーク戦争(1845年)と続き、1857年から59年にかけて反イギリス民族闘争である有名なセポイの反乱が起こりました。

こうしてイギリスがインドを抑圧する中で、日本で1868年に、明治維新が起こりました。また、ほぼ同じ頃に、インドでは独立のために戦った。歴史的な人物が生まれています。

1869年にマハトマ・ガンジーが生まれ、1897年に、チャンドラ・ボースが誕生しています。

1877年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立し、ビクトリア女王が『インド皇帝』として即位しました。つまり、ボースはイギリスのインド植民地支配の絶頂期に生を享(う)けたのです。

ボースは今でも、インドで『ネタージ』と呼ばれています。

ネタージとは『偉大な指導者』という意味です。日本の支援を得て、ボースはINAを結成しました。「Indian National Army(インド国民軍)」です。イギリスの植民地支配と非暴力主義で戦ったガンジーと対照的に、ボースは司令官として戦闘を戦いました。

ボースは1943年5月16日に来日し、嶋田海軍大臣、永野海軍軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、そのうえで、東條英機首相と会談しました。

ボースは日比谷公会堂で講演し、そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。

「約40年前、小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。このアジアの国はロシアを大敗させました。そしてその国が、日本だったのです。このニュースがインド全土に伝わると興奮の波がインド全土を覆いました。インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立っていました。インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、家に飾りました」

ボースは「日本はアジアの希望の光だった」とハッキリと語りました。

ボースはこう続けました。「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦布告をしました。日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を下さいました。われわれは自覚し、心から日本に感謝しています。一度(ひとたび)この機会を逃せば、今後100年以上にわたり、このような機会は訪れることはないでしょう。勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています」

重要なのは、主張より行動でした。ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して66年目にあたる1943年10月、自由インド仮政府が樹立されました。シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。

ボースは「チャロ・デリー」つまり「デリーへ!」と進撃を宣言し、人々はそのメッセージを掲げ行進しました。祖国インドへ向けた歴史的な進撃の開始でした。インド国民軍INAの将兵は日本軍とともに、インド・ビルマ国境を越え、インパールを目指し「チャロ・デリー!」と雄叫びをあげ、進撃しました。「われらの国旗を、レッド・フォートに掲げよ」と、ボースは将兵を激励しました。

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