電脳筆写『 心超臨界 』

ものごとの意味するところはそれ自体にあるのではなく
そのことに対する自分の心構えにあるのだ
( サンテグジュペリ )

読む年表 戦国~江戸 《 水野忠邦「天保の改革」――渡部昇一 》

2024-07-30 | 04-歴史・文化・社会
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結局、この「天保の改革」は2年足らずで破綻し、水野は失脚した。水野は商人を憎み、豊かな町人どもを潰し、贅沢をやめさせる決心だったのである。だから、水野失脚の報が伝わると、数千人とも言われる群衆が彼の屋敷に押しかけて石を投げた。この時逮捕された民衆を裁くことになった北町奉行の鍋島内匠(なべしまたくみ)は、「おまえたちは火事と思ってさっそく駆けつけたのであろう。ほめてとらすぞ」と言って全員を放免した。当時、幕府にあっても鍋島のこの処置を非難する者はなく、「彼は臨機応変の才能があった」と評判がよかったという。


◆水野忠邦「天保(てんぽう)の改革」

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p160 )

1841(天保12年)
水野忠邦「天保(てんぽう)の改革」
世界最大の都市・江戸の経済的成熟度を見誤った失政

松平定信が十一代将軍家斉(いえなり)と対立して寛政(かんせい)5年(1793)に罷免され、「寛政の改革」はたった6年で終わりを告げた。世の中が再び自由を取り戻すと、江戸文化最後の爛熟期が現出した。世に言う「文化・文政の時代」で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や、曲亭馬琴(きょくていばきん)の『南総里見八犬伝』、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきげんじ)』などがベストセラーとなり、文学が非常に栄えた。だが、淫風滔々(いんぷうとうとう)たる時代が40年も続くと、幕府内の風紀まで乱れたというので、またも改革を起こす人物が現れる。それが老中水野忠邦である。

水野忠邦は老中就任3年後の天保10年(1839)に、旗本の鳥居耀蔵(とりいようぞう)を使って「蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)」を行い、渡辺崋山、小関三英(こせきさんえい)、高野長英らを死に追いやったばかりか、砲術の専門家として幕府に重用されていた高島秋帆(たかしましゅうはん)をも一時投獄・追放している。幕末・開国が迫ってきた頃に、日本の蘭学のリーダーともいうべきこれら多数の人物を失ったのは日本の大損害であった。

改革の動機は幕府財政の困窮と大奥の粛清・緊縮であった。約半世紀にわたって幕政に君臨した大御所家斉が天保12年に亡くなり、実権が家慶(いえよし)に移ると、水野忠邦は直ちに、家斉の下で汚職・腐敗を極めていた若年寄以下、千人近い者たちを処罰し、城の内外における綱紀粛正と改革を断行した。だが、一番目につくのは町人への弾圧である。

忠邦は風俗取締りを強化し、庶民の娯楽を制限して贅沢を禁じた。また十組問屋(とくみどんや=大坂・江戸間の荷物運送の株仲間組合)の特権を廃止し、誰でも江戸・大坂間の商業取引が自由にできるようにした。これは一見英断に見えるが、商業と商人に対する嫉妬と憎悪から出た政策で、代案がなかった。こうした制度は江戸開府以来、自然発生的に2世紀もかけて発達したものである。それを一挙になくしてしまったため貨物はうごかなくなり、金融は止まり、物が少なくなって物価が上がった。江戸は当時世界でも人口最大の都市の一つになっていた。その人口を養うため自然に出来上がっていた制度を水野は壊した。経済の発達、生活水準の向上を無視した、まるで元禄時代のようなやり方では、文化・文政の時代の問屋は潰せなかったのである。

結局、この「天保の改革」は2年足らずで破綻し、水野は失脚した。

水野は商人を憎み、豊かな町人どもを潰し、贅沢をやめさせる決心だったのである。だから、水野失脚の報が伝わると、数千人とも言われる群衆が彼の屋敷に押しかけて石を投げた。

この時逮捕された民衆を裁くことになった北町奉行の鍋島内匠(なべしまたくみ)は、「おまえたちは火事と思ってさっそく駆けつけたのであろう。ほめてとらすぞ」と言って全員を放免した。当時、幕府にあっても鍋島のこの処置を非難する者はなく、「彼は臨機応変の才能があった」と評判がよかったという。
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