電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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〈 2005年9月6日投稿 〉
1969年、アメリカのニューメキシコ州の小さな町で1人の男が種麦倉庫の床にこぼれた種麦を拾い集めたものを安くわけてもらって帰ってきた。食べてはいけないと言われていたので食べなかったが、ブタの餌にした。1ケ月後にブタは屠殺されて、3ケ月かけて一家はそれを食べた。ブタ肉には27.5ppmのメチル水銀が含まれていたと言う。その結果、8歳、13歳、20歳の3人の子どもが中毒になった。1人はほとんど植物人間になった。その時、その子どもたちの母親も食べたが、妊娠6ケ月であったために母親が食べたブタ肉中のメチル水銀は胎盤を通じて胎児に行ってしまった。そこで重症な胎児性水俣病が生まれた。(「子宮」は最初の環境。水俣病から地域保健・医療・福祉を考える――原田正純教授の講演より)
1972年、「アサヒカメラ」が31ページに及ぶユージンの水俣の特集を組んだ。そこには、水俣でなにが起きているのかを象徴する写真として、胎児性水俣病患者のわが子を抱いて風呂に入っている母親の写真が掲載された。
水俣病の公式確認から来年で50年。約80人ともいわれる胎児性患者の介護にあたってきた家族の高齢化が深刻な問題となっている。
◆胎児のときから水銀に犯されたわが子を抱く
『ユージン 楽園への歩み』
( 土方正志、佑学社 (1993/04)、p92 )
『アサヒカメラ』(1972年10月号)が31ページにわたって、ユージンの水俣の特集をくみました。これは副編集長の藤田雄三の熱意がみのったものでした。ユージンは29ページめにこう書いています。
「読者は、最後の2ページをごらんになるまえに、どうかこのページを開いていただきたい。私がこのようなお願いをするのは、胎児のときから水銀に犯されたわが子を抱いて風呂にはいっている母親の姿こそ、私がこれまでに表現しえたところの、汚染に対するこのうえなく強い呪(のろ)いであり、生命の持続を擁護するためのこのうえなく雄弁な言明でもあると信ずるからである」
折りこまれたページを観音開きにひらくと、胎児性水俣病患者のわが子を抱いて風呂にはいっている母親の写真が目にとびこんできます。
この写真は、ユージンが水俣で撮影した入魂の一枚でした。
この胎児性水俣病の子をどのように撮影するのがいちばんよいのか、ユージンはずっと考えつづけていました。ある日ユージンは、おかあさんがこの子を抱きかかえて、風呂にいれてあげることを知りました。
おかあさんは、さいしょはなかなか首をたてにふってくれませんでした。なにしろ、自分のむすめの入浴の場面です。しかし、水俣でなにがおきているのかを象徴する写真が撮りたい、というユージンの願いと熱意に、やっと撮影を承知してくれました。
撮影の日、ユージンとアイリーンは親子といっしょに風呂場にはいりました。しずかな風呂場のなかに、ユージンのカメラのシャッターの音がひびきました。」
ユージンは4、5回しかシャッターを押しませんでした。それでじゅうぶんだったのです。シャッターを押すユージンの手には、かんぺきな写真を撮ったという手ごたえがしっかりと伝わっていました……。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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〈 2005年9月6日投稿 〉
1969年、アメリカのニューメキシコ州の小さな町で1人の男が種麦倉庫の床にこぼれた種麦を拾い集めたものを安くわけてもらって帰ってきた。食べてはいけないと言われていたので食べなかったが、ブタの餌にした。1ケ月後にブタは屠殺されて、3ケ月かけて一家はそれを食べた。ブタ肉には27.5ppmのメチル水銀が含まれていたと言う。その結果、8歳、13歳、20歳の3人の子どもが中毒になった。1人はほとんど植物人間になった。その時、その子どもたちの母親も食べたが、妊娠6ケ月であったために母親が食べたブタ肉中のメチル水銀は胎盤を通じて胎児に行ってしまった。そこで重症な胎児性水俣病が生まれた。(「子宮」は最初の環境。水俣病から地域保健・医療・福祉を考える――原田正純教授の講演より)
1972年、「アサヒカメラ」が31ページに及ぶユージンの水俣の特集を組んだ。そこには、水俣でなにが起きているのかを象徴する写真として、胎児性水俣病患者のわが子を抱いて風呂に入っている母親の写真が掲載された。
水俣病の公式確認から来年で50年。約80人ともいわれる胎児性患者の介護にあたってきた家族の高齢化が深刻な問題となっている。
◆胎児のときから水銀に犯されたわが子を抱く
『ユージン 楽園への歩み』
( 土方正志、佑学社 (1993/04)、p92 )
『アサヒカメラ』(1972年10月号)が31ページにわたって、ユージンの水俣の特集をくみました。これは副編集長の藤田雄三の熱意がみのったものでした。ユージンは29ページめにこう書いています。
「読者は、最後の2ページをごらんになるまえに、どうかこのページを開いていただきたい。私がこのようなお願いをするのは、胎児のときから水銀に犯されたわが子を抱いて風呂にはいっている母親の姿こそ、私がこれまでに表現しえたところの、汚染に対するこのうえなく強い呪(のろ)いであり、生命の持続を擁護するためのこのうえなく雄弁な言明でもあると信ずるからである」
折りこまれたページを観音開きにひらくと、胎児性水俣病患者のわが子を抱いて風呂にはいっている母親の写真が目にとびこんできます。
この写真は、ユージンが水俣で撮影した入魂の一枚でした。
この胎児性水俣病の子をどのように撮影するのがいちばんよいのか、ユージンはずっと考えつづけていました。ある日ユージンは、おかあさんがこの子を抱きかかえて、風呂にいれてあげることを知りました。
おかあさんは、さいしょはなかなか首をたてにふってくれませんでした。なにしろ、自分のむすめの入浴の場面です。しかし、水俣でなにがおきているのかを象徴する写真が撮りたい、というユージンの願いと熱意に、やっと撮影を承知してくれました。
撮影の日、ユージンとアイリーンは親子といっしょに風呂場にはいりました。しずかな風呂場のなかに、ユージンのカメラのシャッターの音がひびきました。」
ユージンは4、5回しかシャッターを押しませんでした。それでじゅうぶんだったのです。シャッターを押すユージンの手には、かんぺきな写真を撮ったという手ごたえがしっかりと伝わっていました……。