電脳筆写『 心超臨界 』

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代わりにできる人など誰もいない
( キャロル・バーネット )

日本史 古代編 《 「日本のカミ」とは何か 》

2024-03-09 | 04-歴史・文化・社会
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世の中には、宗教を高級宗教とそうでない宗教に分ける人がいる。ところが、メダルト・ボス(心身医学の権威で現在チューリッヒ大学教授)がインドで教えを乞うた聖者は、ヒンズー教は火や雪や太陽などの持つ徳性が神格化されたのではなく、根源的な神性が、自己を部分的に人間に示そうとしているにすぎず、それはブラーメン(宇宙の根本原理)の様態であるというふうに説明している。ボスのような人間の精神に関する碩学が、このインドの聖者に示している尊敬の深さから考えると、そういう一(いつ)にして多(た)なる宗教は、原始的で幼稚であるどころか、一神教を信じているほうが単細胞的発想にさえ見えてくる。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p63 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(4) 「神道(しんとう)」は、果たして「低級宗教」か

◆「日本のカミ」とは何か

ちょうどそのころ、私はカトリック・インテリのためのある月刊誌に寄稿を求められたので、この問題を中心にして15、6枚のものを書いた。だいぶ経(た)ってから編集者から送り返されてきた。

ボツになった理由は、いろいろな人の神経に触ることが書いてあるので遠慮したいということであった。

それは今(1973年)から10年も前のことで、私はまだ若く、生意気ざかりのころだったから、素直すぎたのかもしれない。ただ私は、内容が間違っているとか、くだらないとかいう理由でボツになったのではないことを知って満足した。しかしその後の状況の変化は、そのときの私の小論が正しかったことを示している。

このことは日本のカミが、日本の宗教に関心を持つ人たちの間ですら、戦後20年以上も忘れられたり、タブー視されたことの一つの証拠となろう。

最近は、また日本のカミについて書かれたものが多く出ている。多くは民族学的興味から出発したもので、柳田(やなぎた)学(柳田国男(くにお)の研究を研究する学問)とか折口学(折口信夫(しのぶ)の研究を研究する学問)という言葉さえ出来ているらしい。この流行の一つの背景は、戦前戦中のカミに対する反発感情が融けてきたことにも一つの理由があろうが、日本のカミは、学者の研究の流行などに関係なく、絶えたことなどないのである。

では、日本のカミとは何なのだろうか。

世の中には、宗教を高級宗教とそうでない宗教に分ける人がいる。

その分類の仕方によるとユダヤ教、キリスト教、マホメット教などの一神教や仏教などが高級宗教となり、ヒンズー教や日本のカミのような多神教、ないしはアニミズムなどは、低級ということになる。

ところが、メダルト・ボス(心身医学の権威で現在チューリッヒ大学教授)がインドで教えを乞うた聖者は、ヒンズー教は火や雪や太陽などの持つ徳性が神格化されたのではなく、根源的な神性が、自己を部分的に人間に示そうとしているにすぎず、それはブラーメン(宇宙の根本原理)の様態であるというふうに説明している。

ボスのような人間の精神に関する碩学が、このインドの聖者に示している尊敬の深さから考えると、そういう一(いつ)にして多(た)なる宗教は、原始的で幼稚であるどころか、一神教を信じているほうが単細胞的発想にさえ見えてくる。

日本の古代の宗教観は、アメノミナカヌシノカミ(高天原に最初に現われた神)以来、国土から山川草木に至るまで、カミが作り出したことになっているから、ボス教授の出会ったインドの聖者流に解釈することも、かならずしも不可能でないように思われるが、宗教哲学的な論議にはここでは立ち入らない。

ただ、古代の宗教をプリミティブと言うのは、いわゆる高等宗教の立場に慣れた人のことであって、実際には、そんなに簡単な問題でもないということだけを指摘しておく。
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