電脳筆写『 心超臨界 』

ひらめきを与えるのは解答ではなく質問である
( ウジェーヌ・イヨネスコ )

◆満州の利権に接近するアメリカの意図

2024-07-20 | 05-真相・背景・経緯
§1-2 日露戦争がなければ白人優位の世界史の流れは変わっていなかった
◆満州の利権に接近するアメリカの意図


何より重要なのは、日本が日露戦争という近代戦において、先進国(白人国)ロシアに勝ったという実績を背景にして、明治44年(1911)の2月になって、アメリカと新通商航海条約を調印して、はじめて関税自主権を獲得したことである。そして、日本が半世紀以上にも及ぶ苦労と忍耐のすえ、平等の取扱いを得た以上、日本も弱い国から同じことを期待しうると考えた。日本人は、これが国際的ルールだと思い込んでいたのである。そして、事実そうだった。この場合。日本から見て「弱い国」が清国であったのは、まことに両国にとって不幸なことであった。しかし、ここで認識しておかなければならないのは、日本が清国いじめをやったのではなく、日本も清国いじめの先進国の仲間に正式に入れてもらったことである。アメリカも清国いじめに参加したがった。アメリカがこの参加に遅れたことが日本との関係をむずかしくすることになる。


『日本史から見た日本人 昭和編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p266 )

日露戦争後の日本の威信は大したものであった。戦士的感情がまだ支配的であった欧米諸国は、日本が満州に対して特別の権益を持つことを当然とした。

日韓併合は日本にも異論があり、伊藤博文(初代韓国統監)自身も最初は乗り気でなかったようである。しかし、併合問題について日本政府が各国の意見を打診してみると――当時の日本外交は慎重であった――1ヵ国として反対の意見はなかった。近接するロシアや清国も反対せず、欧米の主要新聞は歓迎の色が濃かったのである。

シナ大陸においても、これという反日運動は特に目立たなかった。わずかに広東(カントン)で日貨排斥(日本の商品ボイコット)が一度報ぜられたぐらいである。

何より重要なのは、日本が日露戦争という近代戦において、先進国(白人国)ロシアに勝ったという実績を背景にして、明治44年(1911)の2月になって、アメリカと新通商航海条約を調印して、はじめて関税自主権を獲得したことである。

思えば、なんという長い道のりであったろう。日本が黒船の圧力に屈して、安政元年(1854)3月に日米和親条約、いわゆる神奈川条約に調印してから、実に57年ぶりで関税自主権を得たのである。半世紀以上も不平等条約に耐え、日清、日露という国運をかけた大戦争に勝ち、満州に利権を得、さらに韓国を併合し、植民地帝国になり始めたところで、ようやく先進白人諸国は日本を一人前と認めて、条約を改正し、平等な立場になったということで関税自主権も与えてくれたのである。イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オーストラリアに対して、新しい平等な通商関係に入ったのも、この年である。

半世紀以上もの不平等条約から武力制圧を受けるであろう、ということは身にしみて分かっていた。一つの生麦事件で沢山である。不平等な取り扱いを受けるのも、日本が弱いからであって、究極的には日本の責任である、と戦士的精神を持った明治のリーダーたちは感じていた。

そして、日本が半世紀以上にも及ぶ苦労と忍耐のすえ、平等の取扱いを得た以上、日本も弱い国から同じことを期待しうると考えた。日本人は、これが国際的ルールだと思い込んでいたのである。そして、事実そうだった。この場合。日本から見て「弱い国」が清国であったのは、まことに両国にとって不幸なことであった。

しかし、ここで認識しておかなければならないのは、日本が清国いじめをやったのではなく、日本も清国いじめの先進国の仲間に正式に入れてもらったことである。

アメリカも清国いじめに参加したがった。アメリカがこの参加に遅れたことが日本との関係をむずかしくすることになる。

日露戦争直後の明治38年(1905)10月にアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが東京にやってきて、南満州鉄道経営に参加したいという意欲を示し、首相桂太郎と会見して、合意に達した。これについては三井の利益を代表していると言われた元老の井上馨も、財界の大御所渋沢栄一も賛成であった。

しかし、外相小村寿太郎らは、戦場で得た利権を売り渡すようなことはできないと反対して、合意の覚書は破棄された。今から考えれば、幕末の黒船時代の先進国の強さを知っている元老の世代は妥協的であり、若い東大法学部出身の小村の世代のほうが帝国主義的であったと言えよう(また下世話に言えば、小村が講和会議出席のため留守中に、ハリマンとの外交的な話し合いが進んだことに対する立腹もあったであろう。同じことは、昭和になってから松岡洋右(ようすけ)が自分の留守中に進んでいた日米間の話し合いを潰した例にも見られる)。

今にして思えば、元老路線で南満州鉄道を日米の資本でやっていたならば、その後の日支の争いも、したがって日米の戦争も避けえたかもしれない。しかし、その当時は小村の意見はそれなりに筋が通っていた。

ハリマン構想が破れると、アメリカは明治42年(1909)に外交ルートを通じて、満州の鉄道の中立化を提案してきた。これはアメリカも、何とか満州の利益に加わりたいということを示したのであって、けっして正義でもなければ、人道主義でもない。

このアメリカの提案に対しては、ロシアも虫がよすぎるとして反対し、敵味方であった日本とロシアの両国が手をつないで、アメリカの提案を退けている。明治43年(1910)に第二次日露協約ができたのは、そうした背景のためである。日本が侵略国で、アメリカが正義というわけでもないのである。
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