電脳筆写『 心超臨界 』

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( ウジェーヌ・イヨネスコ )

日本史 鎌倉編 《 「城」なき幕府の限界——渡部昇一 》

2024-07-20 | 04-歴史・文化・社会
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この謡曲(『鉢木(はちのき)』)のもとになっている重要な史実は、鎌倉幕府には城も要塞も兵営もない、ということである。常備軍もないし、またそのための財政機関もない。ただ鎌倉は号令するだけである。すると各御家人たちは、自分の家来を引き連れて、ただちに馳(は)せ参ずることになっていたのである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p60 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(3) 楠木正成――日本型「大義名分」の発明

◆「城」なき幕府の限界

「いざ鎌倉」という言葉がある。これは謡曲『鉢木(はちのき)』から出たものであるが、これは鎌倉幕府の軍制を示すのに便利な話であるので、その概要を述べてみよう。

執権北条時頼(ときより)は出家して最明寺入道(さいみょうじにゅうどう)となり、諸国を托鉢して廻りながら民情をさぐり歩いて政治の公正を期した。のちの水戸黄門の話の原型である。水戸黄門のほうは講談であって史実の根拠はないらしいが、最明寺入道が廻って歩いたことは確かである。

この、身分を隠して諸国を巡遊した最高権威者があったということは、大いに空想の種となるものであって、『鉢木』という謡曲も、そうしたところから生じた作品である。

ある冬の雪の降る日に、最明寺入道は上州佐野のあたりを歩いていた。行きなやんだ彼は、そこで源左衛門常世(げんざえもんつねよ)という落ちぶれた武士の家に宿を借りることになった。源左衛門の住居は、ほんとうのあばら家である。

しかし源左衛門夫妻は、礼儀正しく、人品が卑しげでない。そして薪(たきぎ)が足りなくなったとき、大切にしていたらしい鉢植えの木を折って火を燃やし続けた。最明寺入道は深く感銘して、この夫妻の名前を聞くが、なかなか打ち明けない。たって聞くと次のように答えた。

「私は佐野の源左衛門常世という相当な身分の武士であったが、親類どもに所領を横領されてこのように落ちぶれてしまったのである。しかしこれでも、鎌倉に一大事が起きたときは(つまり、いざ鎌倉というときは)、破れたりとはいえ、この鎧(よろい)を着、錆びたりとはいえ、この薙刀(なぎなた)を持ち、痩せたりとはいえ、この馬に乗って、第一番に駈(か)けつけるつもりである」

と、厳然と言いきった。最明寺入道は心を動かされたが、なにしろ微行(おしのび)の巡遊であるから、身分を明かさずに帰ったのであった。

その後間もなく「鎌倉に一大事」という触(ふ)れがあって、関八州の武士がみんな鎌倉へ駈けつけた。源左衛門も、みすぼらしい出立(いでた)ちで痩せ馬に乗って駈けつけた。

すると「執権の前に出よ」ということである。さては腹黒い親戚どもが讒言(ざんげん)して、自分が罰せられるのかと思って出ていってみると、あにはからんや、執権は、この前の雪の晩に自分のうちに泊まった托鉢坊主であったから、びっくりした。

最明寺入道は、源左衛門の言葉が嘘でなかったことを大いに喜んで、これを全軍の前で賞し、彼の本領を安堵(あんど)し、また、鉢の木を切って火を焚いてくれたお礼に、新領地を増やしてやったという話である。

この話は、おそらく創作であろう。

しかし、この謡曲のもとになっている重要な史実は、鎌倉幕府には城も要塞も兵営もない、ということである。常備軍もないし、またそのための財政機関もない。ただ鎌倉は号令するだけである。すると各御家人たちは、自分の家来を引き連れて、ただちに馳(は)せ参ずることになっていたのである。

このような軍制であるから、蒙古のような外敵と戦う場合は、戦闘単位となる一人一人の御家人の負担が大変である。鎌倉幕府そのものが、その費用を負担するシステムになっていないのだ。それでも国内の敵に向うときは、これで間に合う。相手を倒せば恩賞として、より大きな土地をもらえるからである。

しかし元寇の場合は勝ったのだが、幕府は恩賞を与えるべき財源などは、はじめから大して持っていない。しかも、今回の戦いは、何しろ長かった。直接に戦闘した期間は短くとも、いつ来るかわからない敵のために、前後20年間も御家人たちは準備しなければならなかったのだから。

しかし鎌倉幕府の土台を揺すぶったのは、単に御家人の出費が多かった、ということだけではない。国難だから、それは仕方がないことだとは誰もわかっている。

真の原因の第一は、裁判の遅滞であり、第二の原因は契約経済の無視であり、第三の原因は皇統の紛糾であった。
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