電脳筆写『 心超臨界 』

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( ロバート・アンソニー )

読む年表 古代~中世 《 足利尊氏の反乱——渡部昇一 》

2024-09-26 | 04-歴史・文化・社会
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尊氏は、「日本では天皇を担いでいなければ、結局は敗れる」ことに気づき、戦争には「錦の御旗」が必要であると知って、赤松円心の助言に従い、不遇をかこっている持明院統の光厳上皇から院宣(いんぜん)をもらうことにした。普通ならば朝敵が官軍になることは難しいが、このときは簡単だった。皇室が大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統に分かれているのだから、その一方を持ってくればよい。そこで光厳上皇に使いを送り、自分が官軍であることを示す院宣を賜るように願い出た。


◆足利尊氏の反乱

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p84 )

1335(建武2年)
足利尊氏の反乱
「錦の御旗(みはた)」の価値に気づき持明院統(じみょういんとう)
の光厳(こうごん)上皇を担いだ尊氏

足利尊氏は征夷大将軍として実権を握り、源頼朝のごとくならんという野心を持ち、それを阻(はば)もうとする護良(もりなが)親王を讒言(ざんげん)して鎌倉に幽閉したあげく死に至らしめた。

さらに、建武2年(1335)、関東で兵を起こした北条最後の執権高時(たかとき)の二男、北条時行(ときゆき)を討つため鎌倉へ兵を出す際に、「征夷大将軍」の位と東国の管領権を要求したが許されなかったので、尊氏は自ら征夷大将軍を名乗って勝手に出陣し、時行を討ち果たした。

在京の武士の半数以上が尊氏にしたがったのは、武家政治の復活を願う武士が天下に満ちていることを示すものであった。朝廷はおもねるかのごとく尊氏に従二位(じゅにい)を授け、蔵人頭(くろうどのかみ)源具光(みなもとのともみつ)をつかわして労をねぎらい、京に兵をもどすよう促した。

それに対して尊氏は鎌倉で勝手に論功行賞を始めた。この機会に新田義貞の基盤を奪うつもりで、東国にあった新田の領地をことごとく部下たちに与えたのである。

これを知った新田義貞も、畿内(きない)にある足利方の土地を取り上げたので、義貞と尊氏の対立は決定的なものになり、源氏の嫡流の二派が争うことになった。

義貞は尊氏討伐のため鎌倉に向かい、初めのうちは勝ち戦(いくさ)であったが、箱根・竹ノ下の戦いで、敗れ、尊氏は逆に京に攻め上(のぼ)った。しばし一進一退であったが、陸奥守鎮守府(むつのかみちんじゅふ)将軍北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、奥州に奉じていた義良(のりなが)親王とともに奥州軍を引き連れて援軍に駆けつけ、また楠木正成、名和長年(なわながとし)も大いに戦ったため、尊氏・直義(ただよし)兄弟は多くの有能な武将を失い、いったん九州へ逃げた。降伏した1万人もの兵を連れて凱旋した義貞は、左近衛中将(さこんのえちゅうじょう)に任ぜられた。

尊氏は、「日本では天皇を担いでいなければ、結局は敗れる」ことに気づき、戦争には「錦の御旗」が必要であると知って、赤松円心の助言に従い、不遇をかこっている持明院統の光厳上皇から院宣(いんぜん)をもらうことにした。

普通ならば朝敵が官軍になることは難しいが、このときは簡単だった。皇室が大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統に分かれているのだから、その一方を持ってくればよい。そこで光厳上皇に使いを送り、自分が官軍であることを示す院宣を賜るように願い出た。

持明院統は「建武の中興」以来、政治的にはまったく片隅に置かれ、欲求不満が嵩(こう)じていたところだったので大いに喜び、さっそく院宣を与えることにした。九州で代々勤皇の家系である菊池武敏(きくちたけとし)の軍を破って態勢を立て直した尊氏は、再び大軍を率いて京に攻め上る途中で院宣を受け取った。

これで尊氏側も「官軍」となり、京都側にとってはひどく具合の悪いことになった。ここにおいて南北朝並立(へいりつ)の種がまかれたことになる。
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