電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

生きるための杖ことば 《 忘筌――松原泰道 》

2024-10-28 | 03-自己・信念・努力
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そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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学びは大切だが、学びを忘れ抛(なげう)つのはなお大切である。忘れるとは失念ではない、抛つのも放棄とは異なる。学び得た知識、身についた体験にさらに自己を沈潜し、表面に浮かぶ知識や体験の気ぶりを払いぬぐうのが、忘筌・抛筌の願行(がんぎょう)ではないだろうか。忘筌・抛筌に通じる願行を禅者は、“悟後(ごご)の修行”とする。さとりを得たのちに、さらにさとりを否定する修行である。この修行が浅いとせっかくのさとりも自己崩壊するからである。


◆忘筌(ぼうせん)――荘子

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p24 )

「筌(せん)」は「ふせご」ともいう捕魚用の竹製の器具の名。よって、忘筌――筌を忘れるとは「魚を捕らえたら、捕魚器の筌は用済みだ」というほどの意味だが、捕魚後もなお筌を手放さぬ執着の風刺もある。つまり、不用になった手段にしがみつき目的を忘れた本末顚倒の愚を、荘子(そうし)は戒めて「忘筌」と言う。

月のありかを指で示すと、赤ん坊はとかく指だけに目を注ぎ、月を見ようとはしないが、赤ん坊のしぐさを笑えない一群の大人もある。手引きに気をとられて、目標を失うな、との教えでもある。

大徳寺山内の孤篷庵(こほうあん)の茶席「忘筌」は有名だが、千利休の斎号を「抛筌(ほうせん)」という。魚を得たら漁具の筌をさっさと片づけるように、学んだ知識を惜し気もなく投げ捨て、忘れる願いでもあろう。魚筌と茶筌と同音であるのも興趣を呼ぶ。

学びは大切だが、学びを忘れ抛(なげう)つのはなお大切である。忘れるとは失念ではない、抛つのも放棄とは異なる。学び得た知識、身についた体験にさらに自己を沈潜し、表面に浮かぶ知識や体験の気ぶりを払いぬぐうのが、忘筌・抛筌の願行(がんぎょう)ではないだろうか。

忘筌・抛筌に通じる願行を禅者は、“悟後(ごご)の修行”とする。さとりを得たのちに、さらにさとりを否定する修行である。この修行が浅いとせっかくのさとりも自己崩壊するからである。

「さとりおわって、いまださとらざるに同じ(悟了同未了)」とも言う。さとり尽くしていながら、さとっていないものの如くに見えるまでに、水洗いや灰汁(あく)洗いが大切である真実をいう。写真も水洗いがいい加減だと変色しやすいように、私たちもなまの学識や体験だけでは自滅しよう。

つねに「われ、未だし」と自己に厳しくなければならない。
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