電脳筆写『 心超臨界 』

あなたが犯す人生最大の過ちは
過ちを犯すことを常に恐れることである
( エルバート・ハッバード )

古代史における「後追い国家」日本――西尾幹二教授

2015-02-15 | 04-歴史・文化・社会
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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p263 】

9 漢の時代におこっていた明治維新

9-0 漢の時代におこっていた明治維新

ヨーロッパの思想や文学の研究家であった私が、中国の文化や歴史について見解を述べることには久しく抵抗があったし、すぐには見通しも立たなかった。しかし、この困難な課題を少しでもくぐり抜けないかぎり、日本史は語れない。日本の歴史が中国の歴史をモデルとし、必ずしもモデルどおりにはいかなかったとしても、中国史からある深い決定的刻印を受け、それによって古代的国家体制を築いたことは、われわれの常識であり、日本史のいわば前提といっていい、私自身もそう考えていた。

しかし、私は、そのこと自体にずっと疑問をも抱いてきた。より正確にいえば、中国史をモデルにしたという最初の意図と、日本史のなかで実際に起こった歴史事実との間にはあまりにも大きな落差があるという問題点を意識しつづけてきた、と言いなおしたほうがよいであろう。

9-1 古代史における「後追い国家」日本

殷(いん)に始まり唐に終わるほぼ2千5百年にわたる古代中華帝国に展開された統治ドラマ、文民官僚的専制国家体制とはいったいなんであったのか、あの広大無辺の土地における専制支配体制はどうやって可能であったのか。日本の古代国家と比較して考えるたびに、この疑問はふくらむばかりである。

日本のようなこんな小さい国土ですら、中国皇帝に比すべき絶対的権力の期間、すなわち天皇親政の期間はきわめて限られていたし、厳密にいえばほとんどなかった。それでいて、祭祀機能としての天皇の勢威になんびとも抵抗できなかった。頼朝の登場によって、なにか新しいことが始まったかに見えたが、頼朝の東国武士に対する唯一の権力の出所は、彼の「血統」にほかならなかった。すなわち彼が、清和天皇の末裔でるとされ、源氏の名を負う古代権力の流れをくむ位置にいたことが、御家人たちに対する正当性の唯一の根拠であった。それを思うと、いかにも中国皇帝と同じ絶対的権力の支配が全土に及んでいたかに見えるが、じつはそうではない。

日本の場合には、武家の頭領、後には守護大名や領主への忠誠心が武士団を支えていた。鎌倉幕府にしても、御家人である資格は頼朝に忠誠をつくした一門に限られ、北条執権時代に移ってもこの原点は動かなかった。言い換えれば日本では小集団への仁義や義務が人々の一方を決定づけていた。ところが、私には数少ない経験だが、中国の思想書を読むたびに不思議になるのは、君主と臣下の間にも忠誠心の介在がほとんど認められない人間観がたびたび述べられていることである。

たとえば、『韓非子』によると、臣下は隙あらば君主を収奪して自分の勢力を伸ばそうとする存在である、というふうに理解されていて、君主と臣下の間には仁義や道義が成立せず、緊張した敵対関係だけがあるかのように認識されている。その意味では、個人主義的な見方を貫いている。封建道徳というようなものの入る余地はない。韓非子は数多くのエピソードで語っているが、重臣というものは必ず権力を濫用し、君主が油断すればあらゆる奸策(かんさく)を駆使して君主を抑止し、私門の勢力を拡大しようとする存在であると規定している。

『韓非子』を読むと、私は、これが適用できるのは日本では戦国乱世の時代まで待たなくてはならないと思う。室町末期から始まる下克上を経て、武士たちが裏切りや策謀を繰り返すあの乱世においてはじめて、韓非子の言葉は日本史にも有効なものとして読めてくる。と考えていくと、なるほど中国はすでに春秋戦国の乱世を踏まえていて、そのうえで秦漢の古代帝国が誕生したのだということにあらためて気がつく。秦漢から五胡十六国をへて、南北朝の時代を経過したのち、隋唐帝国の時期に、ようやく日本史が中国と接しはじめるのであるから、日本がいかに立ち遅れた、極端なまでの「後追い国家」であったかということをいまさらのように認識する。

中国で2、3千年かかったことを、わが国ではだいたい3百年くらいでおさらいしている。

中国で紀元前数百年-千年の殷周時代より前の秩序とほぼ似たような構造を備えたわが国の氏族社会を基盤にして、古代国家的な外郭が支えられ、保たれているという構造をわれわれは日本の古代史のなかに認めなくてはならない。

明治の近代化においても、にわか造りの、似たような追いかけ構造があった。文学史や美術史の啓蒙主義、古典主義、浪漫主義、写実主義などといったヨーロッパ18世紀以来の展開を、わずか30年か50年でおさらいする「後追い国家」であるという弱点や特徴がさんざんに論じられたものだが、日本史全体を考えたときに、古代中国における専制国家体制の成立と、いちじるしく段階を踏み外した後でこのモデルを後追いしていく日本とのタイムラグは、とうていその比ではない。

本項目「漢の時代におこっていた明治維新」は、明治維新以後と同じような近代社会が古代中国に存在していたわけでもないのだから、少し悪ふざけした題名と思われるかもしれない。ただ、私が言いたかったのは、紀元前200年頃に始まる前漢時代に、すでにして高度官僚社会が成立していたことのもつ重大な意味を、われわれは今どう考えたらいいかに、読者の注意を向けたかったからにほかならない。

しかしここでまた新たな私なりの疑問が生まれる。古代中国に封建道徳がなく、かわりに個人主義がすでにあったのだとすれば、なぜ武官が文官を圧倒し、武による秩序が生まれなかったのだろうか。中国の長い歴史において、つねに文官が武官に優越していた。一貫して文官上位を崩さない統治構造は、私には謎めいて見えてならない。もちろん歴代王朝は末期になると天に見離され、新しい王朝に取って代わられるのを常とする。たいてい外患よりも内憂が原因であったようだ。王朝衰退のきっかけは外戚、宦官、党争であった。そして、異民族の侵入に抵抗できなくなり、内部の反乱ではなく外部の武力に滅ぼされるというケースが圧倒的に多い。

だから、中国の王朝交代劇はおおむね、「禅譲(ぜんじょう)」ではなく「放伐(ほうばつ)」であった。武力による王権の簒奪にほぼ決まっているのだが、いったん新しい王朝が成立すると、ふたたび何事もなかったかのごとく同一性格の文民官僚支配による専制国家体制がたちまちのうちに成立し、固定してしまうという、あの国家の社会構造はいったいどうなっているのだろうか。

皇帝とその手足である高級官僚による一元支配が一般の民衆、すなわち百姓を統治して、微動だに揺るがない。しかし、中国史を読むと、皇帝には原則として誰でもなりうる可能性が開かれているのである。日本のような血統によって変えることのできない世襲的カリスマではない。秦の始皇帝が立ち上がったときも、漢の光武帝(こうぶてい)が立ち上がったときも、明の洪武帝(こうぶてい)が立ち上がったときも、どの場合にでもみな実力と運が権力の頂点を握るきっかけを提供している。思いがけない比喩かもしれないが、ほとんどアメリカン・ドリームである。そのようにある種の開かれた平等の可能性がありながら、なぜいったん皇帝が即位すると、あれほどの広大な領土の全エネルギーが一人の皇帝に結集して、豪族や地方分権の貴族などの登場を許さず、見事なまでに組織化された官僚支配によって次にその王朝が倒れて、易姓革命で新しい王朝が登場するまで、まるで歴史になんらの変化も進歩もないかのごとく、同じことを繰り返す中国の歴史はいったい何なのであろう。中国史のうえの以上のような疑問に答えが出なければ、日本史、とりわけ室町までの歴史は書けない、と私はつねづね考えている。

中国の専制国家体制と比べるなら、日本は典型的な封建社会の歴史を経過している。もちろん天皇を頂点とする古代国家形成期における公権力は、たちまちにして衰亡してしまったのではない。公権力自体が公家や寺社や、武家の頭領といったさまざまな集団の認知を通じて、自らの権威を形成し、確立したという経緯がある。そしてまた、公権力を用いてそれらの集団の権威は他の地域から区別され、特権化されていった。頼朝が京都の権力に依存して東国を支配した構造は前にみた。やがて、下から、あるいはまた地方から、自立してくる新しい力がそれぞれの集団を私物化し、排他的に支配力を高めようとしたが、それを抑制する意味においても、古代国家誕生期における公権力の働きは、おそらく室町末期まで有効に作用したに相違ない。つまり、公権力をもった古代国家の存在意義と、それと二重に重なるようにして派生している多様な広域からの力の表れとの、二つの状況のなかから日本の封建社会というものは発生したといってよいであろう。われわれは、日本史がいかに中国史と異なるかを知り、むしろヨーロッパ中世史との比較解明が待たれることを、右の分析からいえるように思える。しかし、これらのすべての作業を緻密に解明するのは私の任ではないし、またその能力も持たない。

私は、これからの中国研究に新しい視点が開かれる必要がどうしてもあるのではないかと、前から考えていた。江戸の儒学も、吉川孝次郎や貝塚茂樹のような古いタイプの巨匠も、中華思想との距離の取り方において疑問がある。また中国の近代化に期待を抱いて、歴史のなかに政治的主体としての自治団体の存在を推定した内藤湖南のような学説も、さらにまた戦後一世を風靡した領主農奴制などをめぐる諸論議や、すべてを生産構造に還元するマルクス主義的中国観も、今や完全に説得力を失っているように思える。

日本の学問は、われわれが本当に知りたいと思うことにはメスを入れていないのではないだろうか。秦漢帝国から、隋唐帝国に至るまでの中国人が具体的にどういう意識で生きていたのか、なぜ皇帝を絶対化することが可能だったのか。その社会的、心理的、宗教的背景は何か。古代中国では怪力乱神を忌むふうがあり、どちらかといえば合理的意識が立ち勝っていたが、そのぶんだけ政治が宗教となってはいなかっただろうか。ヨーロッパ中世にははっきりした国家と名づけるべきものはまだなく、国家は教会であった。日本の天皇は必ずしも政治的絶対者ではなく宗教上の権威でもあった。そのこととの対比において、中国像を具体的に、緻密に分析し、提示しなければ、こんどは日本史とのずれがはっきりわからない。したがって日本史もわからないということにならないだろうか。唐の律令と日本の律令とを比較した論文をいつくか読んでみたけれども、どの論文にも字句の表面と社会の現実との間の差が書かれていないために、歴史家たちに本当のところがよくわかっているようには思えない。

ヨーロッパの歴史から私の知る錯誤の一例をあげる。「教育の機会均等」は、明治以来、日本人には久しくヨーロッパにおいてすでに実現されている現実と受け止め、日本はこの理念の導入を図るべく努力し、理念は目標でありつづけた。しかし、ヨーロッパの教育の現実は、機会均等からはほど遠かった。むしろこうした理想の標識を掲げることが、たとえばイギリスにおいては支配階級にとって体制を維持するための便法のひとつであった。同理念を最初に提唱したのは抑圧されている階級ではなく、支配階級であった。それもヒューマニズムによるものではなく、上流階級に平均以上の資質がある程度集中しているイギリスの特殊事情を利用し、試験による公平重視は日本と違って、上下の階級間の流動性をむしろ抑える作用を引き起こした。しかも「機会均等」という美名で労働者階級を慰撫し、攻撃の矛先をかわすうえで効果がある施策であったとして、後に知られることとなるわけだ。機会均等の導入がむしろ逆効果をもたらしている。そうこうするうちに日本の現実ははるかにこれを追い抜き、いつの間にか日本のほうが機会均等の教育の過剰をさえ引き起こして、その病理にさえ悩まされるという新事態を先取りすることとなった。

唐の律令について、その法体系の緻密さと抽象性の高度さについて論じられる一方、別の文献では、中国では裁判が法律どおりに行われず、有力者の思惑で決められるという現実が取り沙汰されたりしている。これとは逆に、唐の律令のうち、律、すなわち刑法はほとんど唐律の写しにほかならないといわれる日本の律令だが、この国では、平安期、死刑が行われなかった。

以上のごとく、文字で書かれてある表現と、実際の現実との間にはつねに開きがあり、日本から見て、理念と実際とのずれにたびたび悩まされているのは、たんにヨーロッパ史とのかかわりだけではない。おそらく古代中国の研究においても、深く考えれば考えるほど同様の事態に直面するのではないだろうか。

そうしたところまで私の疑問は浮かぶが、私自身にはこれを根本的に問いなおし、調査し、解明する資格もないし、能力もない。そこで、若い新しい学者の解明に期待する以外にないと思っていたら、最近、足立啓二氏と渡辺信一郎氏という二人の中国古代史の専門家の諸論文に接し、目を開かされる思いがしている。どちらも私より約15歳若い世代の研究家である。本稿では、両氏の諸研究の一端を紹介し、私の歴史観を展望するきっかけとさせていただきたい。

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