電脳筆写『 心超臨界 』

人は経験に比例して賢くなるのではない
経験に対する対応力に比例して賢くなるのだ
( ジョージ・バーナード・ショー )

読む年表 戦国~江戸 《 比叡山焼き討ち――渡部昇一 》

2024-07-23 | 04-歴史・文化・社会
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信長は中世のシンボルである比叡山を焼き討ちしたが、イギリスではヘンリー8世が中世以来のカトリックの大修道院をことごとく破壊して、いわゆる宗教改革を行なっている。同じ頃に同じようなことが起こり、それで日本もイギリスも中世が終わった。日本の朝廷における比叡山、イギリスの王室におけるカトリック教会、という中世の権威の象徴が完全に破壊されたわけだ。イギリスではヘンリー8世、日本では信長をもって近世がはじまったのである。


◆比叡山焼き討ち

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p104 )

1571(元亀2年)  比叡山焼き討ち
中世を終わらせ、近世をひらいた信長とヘンリー8世

都では三好三人衆(三好長逸(ながやす)、三好政康(まさやす)、岩成友通(いわなりともみち))と松永久秀(ひさひで)が、第十三代将軍足利義輝を暗殺し、義栄(よしひで=義輝の従弟)を擁立した。これに対して幕臣の細川藤孝(ふじたか=幽斎(ゆうさい))は、僧籍にあった義輝の弟、一乗院覚慶(いちじょういんかくけい)を還俗させて後継に立てる。これが後の義昭(よしあき)である。

信長は、明智光秀の仲介によって接近してきた義昭を第十五代将軍に奉じて上洛し、わずか十数日で畿内をほとんど平定した。やがて義昭と信長の仲が悪化し、信長は義昭を京都から追放する。これで事実上、足利幕府は滅亡したことになる。足利時代の終わりを象徴するかのように、信長は公家や朝廷に働きかけて元号を「天正」と変えた(1573年)。

しかし、改元前の元亀元年(1570)の時点では三好の残党が四国の阿波にいて、大坂の石山(いしやま)本願寺と連合して反信長勢力となっていた。さらに北の反信長勢力である近江の浅井長政(あさいながまさ)、越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)の連合軍が京都に入り、比叡山延暦寺に立てこもる。信長は比叡山に対し、浅井・朝倉の引渡しを要求するが、比叡山は断固として拒絶した。そのうち六角義賢(ろっかくよしかた)が甲賀から兵を挙げ、本願寺門徒衆は近江の通路を塞いで、信長の本拠地尾張との交通を断った。伊勢長島一向一揆で、信長の弟信興(のぶおき)も自害してしまう。信長は非常に危ない状況にあった。

信長は正親町(おおぎまち)天皇の勅命を請い、浅井・朝倉、本願寺といったん講和を結ぶ。そして翌元亀2年、信長は浅井長政の居城となっていた小谷(おだに)城を攻め、次いで「比叡山焼き討ち」を行なった。信長は比叡山の建物すべてを焼き払い、女性や子供まで皆殺しにしたと言われている。

比叡山焼き討ちは空前の出来事だった。これには賛否両論があるが、江戸中期の儒学者新井白石などは『読史余論(とくしよろん)』で「比叡山の兇悪(きょうあく)を除いたのは大きな功績であった」と評価している。

世界史的に見て私がおもしろいと思うのは、ユーラシア大陸の東の果ての島国である日本と、西の外れの島国イギリスが、ほぼ同じ時期に徹底的な中世破壊を行なっていることだ。

信長は中世のシンボルである比叡山を焼き討ちしたが、イギリスではヘンリー8世が中世以来のカトリックの大修道院をことごとく破壊して、いわゆる宗教改革を行なっている。同じ頃に同じようなことが起こり、それで日本もイギリスも中世が終わった。日本の朝廷における比叡山、イギリスの王室におけるカトリック教会、という中世の権威の象徴が完全に破壊されたわけだ。イギリスではヘンリー8世、日本では信長をもって近世がはじまったのである。

天正元年(1573)、信長は続けて浅井・朝倉を討ったが、越前の一向宗徒が蜂起して信長に降(くだ)った朝倉の一族の喪を滅ぼし、越前は本願寺一向宗徒に占領された。信長は大軍を越前に送り込み、比叡山同様、徹底的な殺戮を行なった。一揆衆1万2千550人が殺されたという。こうしてさしもの「一向一揆」も終焉を迎えた。
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