電脳筆写『 心超臨界 』

行動は人を作りもし壊しもする
人は自らの行為が生み出したものなのだ
( ヴィクトル・ユーゴー )

読む年表 戦国~江戸 《 長篠の戦い――渡部昇一 》

2024-06-20 | 04-歴史・文化・社会
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長篠の戦いで最も画期的だったのは馬防柵(ばぼうさく)を築いたことだ。その後ろに数千の鉄砲隊を置いて、次から次へ撃てるような工夫をしたのである。しかも馬防柵とのあいだにスペースがあって、そこから槍隊(やりたい)がいつでも飛び出せるようにした。この攻撃を受けて、馬場、山縣、内藤をはじめ武田のおもだった武将は全員、戦死した。武田軍は総崩れとなり、勝頼は甲斐に逃げ戻った。


◆長篠の戦い

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p106 )

1575(天正3年)
《 長篠の戦い 》
軍事の天才信長の前に亡びた武田家の悲壮な最期

元亀3年(1572)10月、織田信長が最も恐れていた甲斐の武田信玄が本格的に上洛をはじめた。まずその攻撃を受けたのは信長と同盟関係にあった徳川家康であった。信長は越後の上杉謙信と結んで家康を助けることにしたが、織田・徳川連合軍は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで惨敗する。ところが、天下を取るほどの人物は幸運にも恵まれている。翌天正元年(1573)、進軍の途中で信玄が病死した。

信玄の遺志を継いだ勝頼(かつより)率いる武田軍は、天正3年(1575)、再び京都をめざして進攻を開始した。そして三河国長篠城(みかわのくにながしのじょう)を包囲した武田勝頼と織田・徳川連合軍が衝突する。画期的な戦いとして知られる「長篠の戦い」である。

勝頼を支えていたのは、武田の四天王と呼ばれた信玄以来の宿将(しゅくしょう)である馬場信房(ばばのぶふさ)、山縣昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)、高坂昌信(こうさかまさのぶ)だったが、高坂は上杉に備えて甲州に留まっていた。

武田家から徳川方へ寝返った奥平貞昌(おくだいらさだまさ=信昌(のぶまさ))の守る長篠城が落城寸前まで追い詰められたところへ織田・徳川連合軍が到着し、長篠城手前の設楽原(したらがはら)に陣を敷いた。馬場、山縣、内藤は信長率いる大軍に対していったん引き下がることを進言したが、勝頼は決戦を選び、長篠城を2千人で囲ませておいて、2万の軍隊を13隊に分けて設楽原に進んだ。

その決戦前、おなじみの“天下のご意見番”大久保彦左衛門の講談に、彦左衛門の初陣として必ず出てくる鳶巣文殊山(とびのすもんじゅやま)の合戦があった。勝頼の叔父武田信実(のぶざね)が、長篠城攻撃のために築いた鳶巣山砦(とびのすやまとりで)を守っていた。徳川の家臣酒井忠次(さかいただつぐ)は、これを夜のうちにとってしまい、敵の後方をおびやかそうとして、みごと成功した。

長篠の戦いで最も画期的だったのは馬防柵(ばぼうさく)を築いたことだ。その後ろに数千の鉄砲隊を置いて、次から次へ撃てるような工夫をしたのである。しかも馬防柵とのあいだにスペースがあって、そこから槍隊(やりたい)がいつでも飛び出せるようにした。この攻撃を受けて、馬場、山縣、内藤をはじめ武田のおもだった武将は全員、戦死した。武田軍は総崩れとなり、勝頼は甲斐に逃げ戻った。

信長が考えたこの作戦は非常に画期的かつ近代的なものである。馬防柵で敵を抑えながら一斉射撃を行ったのは、西洋ではハプスブルクの軍隊がオスマントルコ軍を破ったときが最初だった。これは1691年、つまり長篠の戦いから116年後のことである。信長は鉄砲の本場であるヨーロッパより1世紀以上も先んじていた。まさに天才であった。

武田軍に圧勝した信長にとって、次なる脅威は上杉謙信であったが、天正6年(1578)、関東から西に攻めのぼり信長と決戦するつもりでいた謙信は、出陣の直前に急死した。

信長が軍事的にすぐれていたのは、天才的なひらめきだけでなく、状況を見きわめて、じっくり構える必要があるときはけっしてあわてなかったことだ。たとえば長篠の戦いで勝利したときもいったん引き揚げ、急がずゆっくりと武田を攻めた。

武田勝頼はしょっちゅう兵を出しては戦争をしていたが、決定的な勝利というものがなく、たいして意味のない消耗戦を繰り返していたにすぎない。そのうち、武田四天王の最後の一人、高坂昌信が死に、信長の武田征伐が始まると諸将は次々と織田・徳川方に降参し、最後は重臣小山田信茂(おやまだのぶしげ)に裏切られて勝頼は天目山(てんもくざん)に逃げ、そこで自害した。北条家から迎えた妻(名は不明)と長男信勝(のぶかつ)も勝頼とともに死を選んだ。信勝は自害直前に元服式を行ったという。

この悲惨な武田家の最期の美談として残されているのは、勝頼の妻――小田原城主北条氏康(うじやす)の娘で、勝頼に嫁いだ女性である。負け戦になってから勝頼もその家来も、彼女に実家の小田原城に帰ることをすすめたが、「夫とともに果てることこそわが願い」と言って最後まで勝頼についていた。武田家の重臣たちが続々と寝返った中で、武人(ぶじん)の妻としてみごとな姿を見せた20歳の若い女性がいたのである。

かくして天正10年(1582)、武田氏もついに滅びた。
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